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ぬきがき提督伝・橋本信太郎中将⑩・海軍大学

  • 2016/08/06(土) 11:24:56

大震災の悪夢もさめやらぬ大正13年(1924)、橋本は築地にある海軍大学校の入学試験を受験する。海軍大学校、略して海大は、陸軍の陸軍大学校(陸大)とおなじく、海軍教育の最高学府であり、ここに入学する、しないでは軍内で出世するに影響があった。いわば、キャリア組への切符である。(もっとも、海大出でなくても出世できないわけではなく、あくまで目安の一つ、といったくらいだが。)
海軍大学受験の際には、当時横須賀鎮守府で長官副官をしていた草加龍之介の家に、兵学校同期の受験生と転がり込んだ。当時の様子を草加は「梁山泊」と評している、

押し入れから蒲団を出して寝るものあり、ドテラを着るものあり、浴衣を着るものあり、それでも時々飯を炊いて呉たり、夜半のごそごそ台所で握り飯を作ったり、…(草鹿龍之介『一海軍士官の半生記』Ⅱ海軍兵学校時代から海軍軍令部参謀、pp178)

という状況だった。同期生たちの、気の置けない生活が浮かんでくる。ちなみに、この時草鹿宅に泊まり込んだ彼ら41期同期生で、その時の試験に合格したのは草鹿と橋本だけだった。なかでも木村昌福などは、論文提出その日の朝に将棋を打っており、提出日になにを呑気な、と草鹿が声をかけると、
「さあそれがどうも考えが纏まらないのでなあ」
と、言いつつ駒をパチン、とやっていた。当然、落ちた。
12月1日、海軍大学校甲種学生となった橋本と草鹿、それに草鹿邸組ではなかったが合格した原鼎三は、大学で戦略戦術や語学の習得に励むことになった。この時の大学同期は、山口多聞や福留繁、小柳冨次や原忠一など。ここで2年間に及ぶ「戦術修行」にいそしむことになる。
彼ら海大甲種24期の卒業は、大正15年(1926)11月。卒業の折には体調のすぐれない天皇に代わって皇太子の摂政宮が臨御し、その御前で御前試合ならぬ御前作業(図上演習)が行われた。この時の題目は、さきの大戦中最大の艦隊決戦となったジェットランド沖海戦の図上演習だったらしく、そのデータ表がいまにのこっている。。演習後、午後には卒業式が行われた。この期の主席は福留繁、次席が山口多聞であった。この卒業式から1カ月後の大正15年12月25日、病篤かった大正天皇が崩御し、橋本らの卒業に臨御した摂政宮が即位。元号が「昭和」と改まった。この12月、橋本は駆逐艦「梨」艦長に就任する。時あたかも、軍閥林立する中華民国では蒋介石国民党軍による軍閥勢力攻略戦「北伐」がはじまろうとしていた。どちらが勝つかはともかく、内乱のなかで在中日本人が危険にさらされる事は充分に考えられる。橋本艦長の「梨」も長江沿岸へ派遣され、警備にあたることになった。

(大正15年海軍大学校卒業式当日 第24期甲種学生御前作業参考図表・C04015091900)
 

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ぬきがき提督伝・橋本信太郎中将⑨水雷屋

  • 2016/08/01(月) 22:32:40

大正8年(1919)の暮れ、橋本は横須賀市田浦にある海軍水雷学校高等科に入学。水雷戦術や兵器運用を学ぶ。この高等科は、前回入学した普通科にくらべてより専門性の高い教育を行う課程であった。一年の修学期間を終えた(この時の水雷学校主席は田中頼三。また、原鼎三は通信科主席だった)橋本は第一艇隊の艇長となり、大尉に昇進する。同じ日に木村昌福もまた、大尉に昇格し、第二艇隊の艇長となった。「艇」とは、水雷艇の略で、魚雷を主要武器とする船である。ここから橋本は「楓」(大正10年(1921))乗り組み、「蓮」(大正11年(1922))乗り組み、「沖風」水雷長(同年)と駆逐艦ばかりに乗り組み、ついには大正12年(1923)12月の辞令をもって、駆逐艦「夕立」の艦長に任じられた。なお、「沖風」水雷長時代の大正12年(1923)9月1日、第二艦隊第二水雷戦隊に所属して中国沖を演習公開中に「関東大震災」の報告を受け、第二艦隊各艦とともに震災直後の東京へ急行して、被災地への食料品輸送などにあたっている。
 軍将校には、大学の専攻のように自身が専門とする「兵科」がある。海軍では「砲術」「水雷」「航海」などがある。水雷学校高等科を出た橋本はもちろん「水雷」だった。彼のように「水雷」を専門とするものを「水雷屋」と呼ぶ。「水雷屋」は主に魚雷を主兵装とする駆逐艦・軽巡洋艦などの小型艦船勤務を専門とする。小型艦で大型艦を撃沈できる魚雷攻撃は、資源・資本に乏しい日本海軍にとっては実に重宝するものだった。日清戦争での威海衛夜襲雷撃による大型装甲艦「定遠」の撃沈や日露戦争でのバルチック艦隊掃討以来、砲戦とともに日本海軍の主力といて位置づけられていた。
また、「水雷屋」とはその専攻分野のみを指すのではなく、「水雷屋気質」とも言うべき特徴的性質をもつものたちでもあった。水雷屋気質とはなにか。橋本と同じく水雷屋の同期生・高間完氏の回想によれば、「上にあって令する者、おごらず」「下にあって服する者、怖じず」であるとする。
 水雷屋の勤務地は、水雷艇で30人程度、駆逐艦で200人程度、軽巡洋艦で400人程度の乗員で動く小所帯である。これは、「砲術」の花形勤務地である戦艦や重巡洋艦が、戦艦「大和」の3000人を筆頭に、戦艦「金剛」で2300人程度、重巡洋艦「妙高」で700~800人程度であった事を思えば、いかに少人数で動かす艦であるかがわかる。そんな小所帯では、艦長以下がみな顔見知りであり、きやすく付き合える、濃い人間関係を結べた。最後の「大和」艦長となった水雷屋・有賀幸作大佐は、「大和」の沖縄特攻前夜に乗組員の酒盛りに飛び入り参加して自分の禿げ頭を叩かれてもニコニコしていたというが、こんなきさくな付き合い方も、水雷屋の特徴と言えた。
 このきさくさの背景には、いざ戦闘となれば、他艦種にくらべて最も生身を危険にさらす艦種であった事も理由だろう。他国では、小型艦船や潜水艦を駆逐する(だから駆逐艦)役割がおおきい駆逐艦は、日本では艦隊決戦の前衛として、あるいは決戦後の落ち武者狩りとして敵大型艦船を水雷で撃沈する任務が大きかった。防御を考えずに快速性と魚雷の破壊力を武器に、大型艦の内懐に飛び込んでグサリとやる、命知らずの荒くれ者。それが、艦隊において駆逐艦に、「水雷屋」に求められるものであった。また、少人数であるがゆえに、駆逐艦乗りは水雷屋でも見張り、航海操作など、艦内の仕事を多く兼任する事もあり、戦艦勤務の場合に比べて「艦内業務は何でも屋」になる。同時に、小型艦船のために戦艦・巡洋艦に比べ若くして艦長や駆逐隊(駆逐艦4隻で編成される部隊)指揮官になれる特徴があり、若手将校に人気の秘密にもなっていた。
 なお、この時期、橋本は妻をめとる。妻、功とのあいだには大正10年6月に娘が生まれ、信子と名付けられた。大正末年は、海軍部内で気鋭の水雷屋としても、家庭生活でも橋本にとって充実した時期であった。


海軍水雷史刊行会『海軍水雷史』1979年
山本千代子「田川飛旅子年譜」角川書店・編『田川飛旅子読本』381頁・1995年

ぬきがき提督伝・橋本信太郎中将⑧初陣、その2

  • 2016/07/20(水) 23:26:31

12月、候補生から正式な海軍少尉に採用された橋本は、スバ(現:フィジー共和国)に駐留する南遣支隊司令部附きとなった。『第一南遣支隊公報』12月7日には、「筑摩艦長ノ命ヲ受ケ服務スベシ」として少尉・橋本信太郎の名がある。もっとも、この時点では「筑摩」はタウンズヒルに停泊していたようだが。任官直後の12月10日、タウンズヒルで補給作業にあたる「筑摩」に山屋他人南遣艦隊司令より電文が入った。
「補給完了後、艦隊はヌーメアに集結すべし。」
英海軍部隊がフォークランド島沖でドイツ東洋艦隊を捕捉、交戦したのである。電文到着の二日前の12月8日、日本海軍の主敵だったドイツ東洋艦隊はこのフォークランド沖海戦で壊滅し、司令官シュペー提督以下が戦死した。これにより、南洋方面に艦隊を展開させる必要が減じたため、12月12日に艦隊の日本帰還が決定。翌大正4年1月17日、南遣艦隊は横須賀港に帰港した。岸壁には山屋他人司令官の家族はじめ、多くの家族が歓声をあげて出迎えた。
 その後、橋本は司令部附から正式に「筑摩」乗り組みになるが、8月には防護巡洋艦「矢矧」(「筑摩」型2番艦)に代わり、その年12月1日の辞令で中尉に任官し、そのまま横須賀にある海軍砲術学校普通科に入学する。なお、直後の12月4日に開催された海軍の大イベント、大正新帝即位式に伴う特別観艦式には「矢矧」乗り組みの中尉として参加した。「矢矧」はこのとき、大正天皇座乗のお召し艦「筑波」の供艦として近くに仕えている。橋本ら「矢矧」乗員は、観艦式後に新鋭戦艦「比叡」で昼食を天皇陛下より下賜された。砲術学校での学習を終えた半年後、今度は水雷学校普通科に入学する。砲術、水雷などの基本技術を持ち回りで全て学ぶのは海軍士官の義務教育であり、このなかから自分にあった術科を選ぶことになる。
 大正6年(1917)、普通科教育課程を終えた橋本は、駆逐艦「神風」に乗り組む事になった。第二駆逐隊(神風・響・如月・初霜)を構成する一艦である。この年3月、ロシアで革命が発生する。皇帝ニコライ二世は退位し、300年にわたって、かの地を治めてきたロマノフ朝帝政ロシアはここにほろびた。連合国の一角は崩れたが、翌4月にはアメリカがついに大戦に参戦する。勝敗の行方は、連合国に確実に傾きつつあった。日本はこの年、連合軍支援のために特務艦隊を地中海に派遣した。マルタを拠点に活動するこの艦隊には、同期同郷の原鼎三大尉が「香取」乗り組みで参加している。また、この遣欧艦隊には同郷の大先輩である寺島健中佐が、艦隊参謀として参加していた。
 大戦での連合国勝利が近づきつつあるなか、もうひとつの懸案が北方にうまれつつあった。崩壊した帝政ロシアのあとを受けたソビエト社会主義国家ロシアである。優勝劣敗の競争を是とする資本主義と、そこから来る他国資源や市場をうばってでもの繁栄を肯定する帝国主義をかかげてきた連合国側にとって、資本主義経済を否定し、国の仕組みそのものを変えてしまう思想である共産主義と、共産主義を輸出しようとするソビエト国家は脅威だった。大正7年(1918)日本を最大兵力とする連合国各軍は、シベリアに逃げ込んだ反ソビエト派のチェコスロバキア軍を支援し、地上軍を上陸させる。「シベリア出兵」のはじまりである。陸軍出兵による米価上昇にともなう「米騒動」のような副産物を生みだしつつ、日本軍はシベリアを制圧していった。しかし、すさまじい寒気の冬がやってくると、地の利があるソビエトロシア側の反撃が始まり、シベリア出兵部隊の進撃は停頓する。そして大正9年(1920)、日本軍が制圧していたニコラエフスク(尼港)で、ソビエトロシア勢力パルチザンによる日本軍へのだまし討ちと居留民の大虐殺がおこなわれた「尼港事件」が起こった。この現場を木村昌福は砲艦の乗組員として目撃している。

紀修一郎『日本海軍地中海遠征記・第一次世界大戦の隠れた戦史』1979年3月・原書房
帝国軍人教育会『震天動地世界大戦史』1919年10月・帝国軍人教育会
『第一南遣支隊公報』(C10128531600)
『軍艦扶桑、比叡、金剛午餐下賜人名簿』(6)C08020572400)

ぬきがき提督伝・橋本信太郎中将⑦初陣

  • 2016/06/30(木) 00:04:36

1914年6月28日のサラエボ事件を発端とした戦争は、当時の網の目のような軍事同盟やヨーロッパ各国軍のからくり仕掛けのような動員・戦争計画により瞬く間にヨーロッパ全土を巻き込む戦いに発展した。かたや、七つの海の覇者として世界に植民地帝国を築いたスーパーパワー・大英帝国並びに英連邦各国と、それにくみする「スチームローラー」(敵軍をひきつぶす)ロシア帝国、大陸軍国のフランス。かたや、その英国支配に異を唱え、「鉄血宰相」ビスマルク以来営々として陸海軍を拡充、整備した「遅れてきた帝国主義列強」ドイツ帝国、ハプスブルク家の君臨する、この事件のきっかけをつくったオーストリア=ハンガリー二重帝国。ヨーロッパ主要国はこの二陣営いずれかにくみして戦闘に飛び込んで行った。
 ひるがえって、日本の対応は。日露戦争の際に大いに役立った軍事同盟「日英同盟」にのっとれば、当然に英国陣営にくみするべきだろう。しかし、その英国はあまり日本の参戦に乗り気ではなかった。というのも、英国、というより、その連邦の一角であるオーストラリアや、ドイツ軍が駐留する中国は、日本の参戦目的を、大戦を奇貨としてアジア地域での勢力圏拡大と見たのである。また、日露戦争後、日本を太平洋覇権のライバルと捉えはじめたアメリカも、日本が南洋のドイツ軍基地をうばえば、近未来の対米戦争においてアジアのアメリカ拠点・フィリピンなどを攻撃する絶好の基地になってしまう、との論調がさかんだった。
 しかしながら、ドイツ軍は中国山東省を1898年に租借して以来、同地青島に要塞を構え、装甲巡洋艦「シャルンホルスト」「グナイゼナウ」を主力とする有力艦隊をもっている。シュペー提督に率いられたこの艦隊は、開戦とほぼ同時にパガン島(北マリアナ諸島。現在、アメリカ自治領)に集結した。彼らはここで補給を受けてから南太平洋に出撃し、通りがかる商船や輸送船を襲って撃沈・拿捕する「通商破壊作戦」をはじめた。ちかくは日露の時のロシア・ウラジオ艦隊が実施し、日本人を恐慌させたこの戦術は、①少ない艦船で敵の補給線を妨害できる。特に英国や日本のような輸入資源に依存する国には有効。②輸送船を守るためや通商破壊艦を撃沈するために、敵艦船の多くを拘束でき、味方主力艦隊の行動を間接的に支援できる。といった利点があり、特にドイツ海軍のように、海軍戦力の乏しい国が大海軍国とわたりあうには大きな成果を期待できた。一方の英国海軍は、日露戦争後にロシア艦隊がついえてから東アジアの艦隊を縮小しており、単独でドイツ東洋艦隊と渡り合えるか疑問視されていた。加えて、当時の海軍大臣チャーチルが英国艦隊を香港に集結するよう命令したため、ドイツ東洋艦隊をとりにがす失策を演じてしまう。ドイツ艦隊を討ち取らねば太平洋の航海を安全にはできない。ヨーロッパでもドイツ大洋艦隊とにらみ合う英国には、この東洋艦隊撃滅に日本の協力は不可欠であった。
かくして、8月23日、日本はドイツに宣戦布告。日本海軍も太平洋の安全確保とドイツ東洋艦隊撃滅、東アジアのドイツ軍拠点制圧に動き出す。橋本たち「生徒に毛が生えた」ていどの少尉候補生が北海道・苫小牧港に入港したのは、宣戦直前の7月30日だった。すぐに候補生たちも新任地として艦船乗り組みが発令される。8月11日、橋本が拝命したのは「筑摩」乗り組み。5000トンの防護巡洋艦である。橋本を乗せた「筑摩」は巡洋戦艦「伊吹」(艦長は兵学校の教頭だった加藤寛治大佐である)と組んで、シンガポール方面に向けて出撃した。これがこののち、昭和20年のペナン沖まで続く橋本の軍人航路のはじまり、初陣となった。9月初旬にシンガポールに到着した「伊吹」と「筑摩」は、その地を拠点に英国海軍などと共同で周辺海域に出没するドイツ東洋艦隊を警戒する。9月16日には、東洋艦隊の軽巡洋艦「エムデン」がベンガル湾で輸送船を襲っているとの情報を受け、「筑摩」に出撃命令が下った。スリランカのコロンボを目的地とし、航海中に「エムデン」を捕捉すればこれを攻撃するのである。また、航海中にであった英国船舶にあたりが危険であることを知らせ、すぐ退去するようにも通達している。しかし、このときの作戦はなかなか功奏しなかった。9月21日、「エムデン」の目立った情報もなくコロンボに着。すぐに軍令部からの命を受けた「筑摩」は、今度はビルマ(現ミャンマー)のラングーン(現ヤンゴン)にむかう。しかし、途中でトマンコマリー(現スリランカ)に「エムデン」あり、との情報を受け、反転する。しかしこの追尾も空振りとなり、コロンボで再度の補給を受ける。ここで10月1日に「伊吹」と2隻で特別南遣支隊に編成された事を知った。かように、あちこち警戒しても「筑摩」も英国艦隊も「エムデン」を捉えられない。いまだ航空機が海上偵察に用いられない時代、後年のミッドウェーやソロモンをおもえば別世界のような話である。しかし、神出鬼没で連合軍を翻弄した「エムデン」もついに年貢を納めるときがきた。輸送船襲撃や基地砲撃など、インド洋で獅子奮迅の大活躍(日本や連合国からみれば大暴れ)を見せたのち、11月9日、ココス諸島のディレクション島通信基地(オーストラリア領)を攻撃中にオーストラリアの軽巡洋艦「シドニー」に捕捉され、ついにしとめられた。この時、同じく「エムデン」を攻撃できる位置にいながら撃沈の手柄を「シドニー」に譲った加藤艦長は、「伊吹の武士道」として名を知られるようになる。しかし、その場に橋本の乗る「筑摩」はいない。この時はグレートニコバル(アンダマン諸島)の警戒のためにずっと西の海域を警戒していた。


平間洋一『第一次世界大戦と日本海軍・外交と軍事の連接』慶應義塾大学出版会・1998年
三野正洋・小清水政夫『死闘の海・第一次世界大戦海戦史』光人社NF文庫・2004年
『軍艦筑摩戦時日誌 大正3年9月3日~10月12日』(アジア歴史資料センター・C10080165900)
『軍艦筑摩戦時日誌 大正3年10月13日~11月10日』(C10080166700)


ぬきがき提督伝・橋本信太郎中将⑥卒業航海

  • 2016/06/25(土) 21:19:12

海軍兵学校を出た生徒は、少尉候補生として練習艦に乗艦し、海軍生活のイロハを船の上で学ぶ。
 ここで橋本らは、かつての八方園で気合いを入れられて以来のスパルタ教育を受けた。海軍俗論に曰く、「牛、馬、候補生」。候補生はそれこそ馬車馬のようにこき使われつつ、艦船業務を体にたたき込んでいった。なかでも大変だったのが天測、すなわち空の星を計測して艦隊の現在位置を確かめる作業だった。GPSもない当時、星の位置から現在地を割り出すのは、大航海時代以来の艦船運行の基本である。特に、陸のない大洋を航海する事が多い日本海軍艦艇に乗るには必須の技術といえた。しかしこれが慣れないと難しく、計測を間違えて測定現在地を地図で確認すると自分のフネが陸地を疾走している事になった、といった笑い話もこの時期の候補生から生まれた。
 このような訓練時期を経て、候補生が最後に行うのが「遠洋航海」である。大正3年(1914)4月20日、横須賀港を出港した練習艦隊は、一路航路を東へとった。まずはハワイ、ホノルルへ向かう。同期の草鹿龍之介曰く「候補生はセキスタントとデッキウォッチの毎日」、見張りに天測、さらには溺者救助訓練などさまざまな訓練に明け暮れた。特に候補生たちから「海坊主」とあだ名された遠洋航海艦隊司令・黒井悌次郎少将(山下校長と同じく「米沢海軍」人材の一人。日清・日露戦争で活躍し、日露では旅順要塞砲撃部隊を指揮。この航海中に昇格して中将)は無類のやかましやで、候補生たちはじきじきにしぼられることも度々だった。そんななかでも、橋本ら候補生には実地でみる初めての欧米社会に期待も高まっただろうか。海外はおろか、生まれた土地から一生離れないものも多くいた時代の話である。
 5月8日、練習艦隊はハワイに入港する。遠洋航海は少尉候補生の訓練という意味の他に、各地の日系人コミュニティと交流したり、実際の諸外国を見たりして国際感覚を磨くことも目的の一つである。また、在外の移民や日系人には、日の丸をはためかせた帝国海軍の艦船をみることは心細い異国の地で祖国のちからを見て安心できる一大イベントでもあった。ソフトな「砲艦外交」といっていい。息詰まる訓練や外交儀礼の合間に、ワイキキを散歩したり、土産物を買ったり、という憩いの一時もあった。その後は15日にキラウエア火山を見学後、ハワイを発ち、31日にアメリカ本土に到着。アメリカ合衆国はロサンゼルス、サンフランシスコ、カナダはバンクーバー、シアトルなどをまわった。そこからアリューシャン経由で日本へ帰還する。この41期のなかにいて、橋本とも交際の深かった木村昌福は、こののち太平洋戦争下にこの北方、アリューシャンを舞台に「奇跡」を現出する事になるが、当時はまだ知るよしもなかった。
 そんな41期少尉候補生たちは、日本本土に帰るや突如として実戦に向かうことになった。東欧・セルビアでオーストリア=ハンガリー二重帝国皇太子が暗殺され、ヨーロッパ列強ことごとくが二手にわかれて激突する大戦争、「欧州大戦」が勃発したのである。


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