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地震加藤になれなかった男

  • 2015/01/01(木) 14:35:06

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

さて、正月からする話題ではありませんが、今年は阪神大震災から20年、そして危機せまる南海大地震もますます発生の可能性が高まる、天災の備えが大事な年になりそうです。それにあわせて、こんな話があります。

朝鮮出兵の際、石田三成と対立して伏見で蟄居処分を食らった加藤清正。そんなある日、伏見で大地震が起こり、太閤秀吉の伏見城が倒壊する。清正は蟄居中であるにもかかわらず、手勢を率いて秀吉のもとに駆け付けた。
「虎之助(清正)、蟄居の身でありながらわが身を案じての働き、真あっぱれじゃ!」
秀吉は喜び、清正に自身の姓「豊臣」を与えた。世間の人は彼の忠義をたたえ、「地震加藤」と呼んだ―

いい話ですね。ですが、こっちはどうでしょうか…

江戸時代初期、江戸で火災が起こった。下野唐沢山城城主、佐野房綱は早馬を出して、江戸に将軍の無事をうかがう使いを出した
家康「佐野殿、そなた、えらく使いが早かったのう。」
房綱「はは、我が唐沢山城からは江戸の市中が遠望できますゆえ、危急の折にはすぐ駆け付けられます」
家康「なに、うぬは将軍家の首府たる江戸を見下ろしておるのか、けしからん!」
佐野家は家康の不興を買い、北条、上杉をも弾き返した堅城・唐沢山を廃城させられた―

ほぼ、おんなじことをしているのに、この扱いの違い。佐野氏は北関東の名門であり、どっちかというと豊臣恩顧の外様であったこともあるんでしょうが。
さて、この唐沢山城、現在の栃木県佐野市に跡地があります。はたして、ここから本当に東京は見えるんでしょうか。明日から確かめにいきたいと思います。

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復活、夏目さん家

  • 2014/12/09(火) 21:27:53

今日は漱石忌、夏目漱石の亡くなった日です。そこで、夏目漱石が『こころ』などの代表作を書き、弟子たちと「木曜会」をもち、後に「漱石山脈」とまでいわれた人材を輩出し、最期を迎えた早稲田の漱石山房の跡地、漱石公園にいってきました。静かな住宅地のまん中、ぱっと見なんの特徴もない公園です。しかし、正門前には夏目漱石の胸像がお出迎え。胸像の後ろには、漱石山房の庭(漱石の作中に描かれた庭の植生を再現しています)とベランダを再現した建物と、ちいさな博物館があります。博物館の方の話では、この再現したベランダから隣に立つ都営住宅あたりまでが山房の跡地にあたり、すでに漱石の生誕記念をめざして都営住宅を買い上げて解体し、漱石山房を完全再現する計画がはじまっているとか。
あと数年後には、寺田寅彦や森田草平、鈴木三重吉なんかが通った夏目さん家がふたたび現れるわけですね。

無双のひと

  • 2014/03/09(日) 12:28:15

塙団衛門の墓


戦国時代の最末期…というか、江戸時代のはじめを告げた、大坂の陣。慶長19年(1614)の冬の陣、慶長20年(1615)の夏の陣、このさなかには個性爆発な侍たちが大坂に集結し、最後の大逆転(個人的な意味で)を策していました。元大名一門の真田幸村、長曽我部盛親、毛利勝永。重臣クラスの後藤又兵衛(旧黒田家)、明石全登(旧宇喜多家)なんかは有名です。
ですが、それ以外にも豪傑がそろっていました。平穏な時代じゃ生きられなさそうな、いわゆる戦馬鹿。その一人が、塙直之、別名塙団衛門です。「はなわ なおゆき」と「ばん だんえもん」で名字の読み方がなぜか違います。出身は尾張だとか、織田家旧臣の塙(原田)直政の一門とか言われていますが、よくわかりません。一応、「賤ヶ岳七本槍」の加藤嘉明の臣下として活躍していました。朝鮮出兵の際、二人で藤堂高虎の軍勢を出し抜いたり(名将言行録・巻31)していますが、結局加藤家にいずらくなり、出奔しました。理由は、関ヶ原の戦いにて部隊指揮官なのに部隊ほっぽりだして単騎突撃したんだとか。しかも鉄砲隊指揮官なのに白兵突撃。嘉明はスタンドプレー大嫌いだったので、ブチ切れたようです。で、それで反省したかと思いきやそんなわけはなく、冬の陣では夜襲を敢行し、蜂須賀陣を混乱させ、去り際に「夜討ちの大将、塙団衛門」と書いた木札をまいていきました。押しの強さが仕官につながるのが戦国武将ですが、彼はその典型です。
そして迎えた最終決戦、夏の陣。大坂城が裸城になった豊臣家は、野戦での決戦を行います。包囲する徳川軍の背後を混乱させるため、大野治長らは一計を案じます。当時浅野家が治めていた紀州和歌山藩で一揆を起こさせ、同時に豊臣軍を進撃させ浅野軍を破る。直之ら豊臣軍が南進、浅野軍と現在の泉佐野市樫井で交戦しました。
ここでも、直之は戦馬鹿ぷりを発揮します。淡輪重政(たんのわ しげまさ)らと先陣を争って吶喊。雑兵を手ずから討ち取ってまわりました。しかし、彼個人の武勇でもいかんともしがたく、ついにはこの樫井で討ち死にします。墓は淡輪の墓近く、紀州街道沿いにあります。紀州と泉州の境、雄の山峠まで自転車でもわずか2時間程度の場所です。
個人技の達人、リアル無双な直之が江戸に生き残っていたら、どうなったでしょうか?武勇で立身できたでしょうか。宮本武蔵やかぶき者の末路を見る限り、本意を遂げる人生は送れなかったのではないでしょうか。むしろ、個人技をいかんなく発揮し、豪傑として記憶に残ったことが、自己顕示のつよい彼の最期としてふさわしかったように思います。

両面スクナの国

  • 2014/02/25(火) 21:59:42

飛騨中世史の研究

自転車で走って実感しましたが飛騨高山は山深く道細く、大政治勢力が育ちにくい土地に思われました。そういう土地はえてしてユニークな小勢力がうまれます。紀伊の雑賀衆しかり、信濃の真田・諏訪一族しかり。飛騨は古代には顔を二つもち、飛騨山中を跳梁して討伐された、両面スクナという怪物が生まれています。飛騨と信濃の境にはそのスクナが御飯をもった石が残っていたり、スクナが仏として祀られているお寺があったりします。そこの住職さんに話を聞く機会がありましたが、「スクナは大和朝廷からは賊軍扱いされてるが、飛騨の人には文化をもたらした英雄とされてます」とのこと。大和南部や熊野にも「まつろわぬ民」がいたようですが、山地ってのはどうにもそういう反中央権力志向になるようです。
さて、飛騨では戦国時代には国司姉小路一族をトップに三木(みつき)、江馬、内ヶ島の勢力が分立していました。そのひとつ、三木氏は三木直頼の時代に江馬や姉小路を押さえ、飛騨の最大勢力となりました。その子、三木良頼と自綱は国司の姓、姉小路を名乗り飛騨に一大権力を打ち立てます。
しかし、本書ではこの二人への評価は芳しくありません。連邦型に諸勢力を調整することで飛騨を安定させた祖父、三木直頼に比べ、名門・姉小路家の家名を簒奪し、飛騨の独裁者になろうとした良頼。江馬氏を滅ぼし(天正十年、八日町の戦い。飛騨史上初の鉄砲戦があったとか)、ついには対立した嫡男を自決に追いやった自綱。「信長の野望」では爽やか笑顔の自綱ですが、やってることは専制志向の暴君、という評価です。遂には豊臣秀吉に対抗できる、と自己を過大評価して秀吉の部下、金森長近に鎧袖一触でふっとばされる・・・
紀伊や信濃も覇権勢力(豊臣や武田)と激突し、粉砕されていった過去があります。ただ、紀伊は雑賀孫一、信濃は真田一族といった後世に「英雄」とされた人々がいました(バサラなんかがはやる前は、孫一の名前を「ざっかまごいち」と読んだ友人もいましたが)。飛騨にも中世の両面スクナのような人がいないものでしょうか。地元の人から見たら、この三木姉小路氏への評価はどんなものなんでしょう。

磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む

  • 2013/03/02(土) 19:36:31

同じく、藤白神社には有間皇子がおなじ社内に祀られています。藤白神社本殿から右手にお社があり、そこから百メートル程度。少し農道のような細い道を歩いたら、有間皇子が最期を迎えた藤白坂と皇子のお墓があります。
謀叛の罪でこの地で処刑された歌人皇子を偲ぶひとは多いようで、新しい花が供えられていました。
有間皇子の処刑は冤罪説、前天皇の子供である有間が邪魔になった中大兄にはめられた説、本当に謀反する気だったけど協力者の蘇我赤兄(そがのあかえ。後に流罪になる。なお、戦国時代の「土佐七雄」の一家、安芸氏は彼の子孫を名乗ってるとか)に見限られた説、いろいろあるようです。いまは真相は藪のなかですが、同じくらい藪の中なのは彼の容姿。十九歳で処刑された薄倖の皇子、歌才に優れた文学少年、そんなイメージからか、どうしても線の細いイケメンを想像してしまいます。この辺、晩年五十代の真田幸村が大坂の陣でも少年のような外観で描かれたり、新撰組の面々が(写真のある土方や近藤を除いて)もれなくイケメンになってたりするのと同じものなのでしょう。
特に古代史の場合、肖像画もなにもないので容姿は後世の想像に任せるしかなく、小説家や漫画家のキャラクターが本当の容姿であるかのように思われやすいと思います。また、少年漫画がバトルの描きやすい戦国や幕末に偏りやすいのに対し、恋愛が結構表に出る飛鳥~平安ごろの漫画は少女漫画が多いイメージもあります。そんな時代の「薄倖の皇子」ですから、はかなげな美少年イメージもつくというものです。ただ、イメージというのは移ろいやすいもの。かつてイカツイおっさんだった佐々木小次郎が、美青年になったように、まったく違う有間皇子像を描いた作品が広まれば、有間皇子のイメージが変わらないとも限りませんね。

いや、だからって、めっちゃ体育会系でいかにも陰謀巡らしそうな有間皇子を見たいかと言われると…見たいような、そうでないような…


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