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「エライ人」の家族、その2・じいちゃんは天下人

  • 2013/01/30(水) 20:53:26

高野山金剛峯寺は、武将や大名など、有名人の墓所がつらなる場所でもあります。なかでも、豊臣一門の墓石は大きく、たくさんの人が訪れています。
そんななか、高野山のふもと、橋本市向副の柿畑に、墓石と記念碑だけが残る武将がいます。畑のなかにポツンと墓石の主は、世が世なら天下を治めたかもしれない人物でした。
ここに埋葬されたのは、織田秀信。名前から解りますように、あの織田信長の嫡孫です。彼の父は、甲斐武田勝頼を一月足らずで滅ぼし、信長から織田家を譲られていた嫡男の織田信忠でした。もし、信長が天下をとっていれば、秀信は徳川家光のような「生まれながらの天下人」として日本に君臨したかもしれません。そうなれば、徳川も羽柴(おそらく、豊臣姓は生まれなかった)も秀信の一重臣として意を迎えたでしょう。そしてそれは、天正十年では時間の問題に思われたでしょう。
しかし、本能寺の変によって彼の運命は暗転しました。祖父信長、父の信忠が亡くなり、天下はかつての家臣、羽柴改め豊臣秀吉のものになります。当時は幼児でしかなかった秀信は、秀吉に担がれ、反秀吉派(柴田勝家、織田信孝)討伐の大義名分とされました。
清洲会議にて、秀吉は秀信(当時は三法師)を抱き抱えて登場、「織田の血筋は秀吉が支える」と表明し、勝家らの反発を抑え込んだのです。その後、秀吉が織田家の天下を支えたか・・・聞くだけムダと言うものでしょう。
それでも、秀吉は三法師改め秀信を岐阜城主とし、官位も与えるなど粗略な扱いはしませんでした。
それゆえか、秀信は関ヶ原の戦いに際し西軍に参加し、岐阜城で福島正則ら東軍を迎え撃ちます。激戦の末、降服した秀信は岐阜を追われて高野山に追放されました。降服のあと処断もささやかれましたが、福島正則が「我が武功に代えても」と嘆願したとか。
で、普通なら高野山で隠居して亡くなりました・・・となるのですが、高野山は過去の因縁を忘れていませんでした。
実は、本能寺直前、信長は紀州・四国制圧の一環として高野山侵攻を計画していました。紀の川を挟んで旧那賀町(いまの紀の川市)から伊都郡にかけて、当時の戦闘用に構えられた城塞があったそうです。(那賀中学校はかつての高野山側砦、穴伏城跡にたっており、運動場下の溝は城跡の堀だとか、かつらぎ町と那賀町の境にある鉢伏山は織田軍の陣地があったとか)。一山灰塵となった比叡山の悪夢再来に戦いたであろう高野山にとり、信長は仇敵でした。しかも秀信、信長にそっくりな顔つきだったとか・・・
秀信は結局高野山を追い出され、墓の立つあたりで亡くなりました。地元民の娘との間に子がいて、子孫が残ったとかいう伝承もありますが、公的にはここで信長の嫡流は絶えました。

ことごとに信長の影がつきまとう織田秀信ですが、信長最晩年の時点で彼は3才かそこら。顔もあんまり覚えていないじいちゃんに振り回されたことになります。まあ、じいちゃんあってこその岐阜城主であり助命であったことも事実なんでしょうが。

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魔女受難の時代の終わり?

  • 2013/01/29(火) 21:53:39

神聖ローマ帝国 1495‐1806 (ヨーロッパ史入門)

さきの、ザイン=ウィトゲンシュタイン家が領邦を形成していた、神聖ローマ帝国の歴史。「神聖ではなく、ローマ的ではなく、そもそも帝国ですらない」(ヴォルテール)とかいわれて、低い神聖ローマの評価は正しいのか、という本です。また、よくわからん帝国の制度についても解説があります。

神聖ローマ帝国、ひいてはオーストリア・ハプスブルクは基本的にやられ役感が強いです。スイスに独立され、オスマン帝国に首都を囲まれ、三十年戦争で国土ボロボロにされ、プロイセンにいじめられ・・・国内ではプロイセンやバイエルンなどの強大な領邦が好き勝手絶頂で、さながら戦国時代の足利将軍のような扱い。ナポレオンに止め刺されるまで死に体な印象でした。ですが、この本ではそうじゃない評価が示されています。そもそも、「神聖ローマショボい論」は、プロイセン=ドイツ帝国が力をもち、強権をふるう国民国家万歳な時代に生まれた評価。強大な力で国民をまとめあげる国を理想とすれば、連邦にちかい神聖ローマ帝国は烏合にみえます。だから、近年では国民国家万歳からはなれて、連邦国家としての神聖ローマが再評価されているとか。

面白かったのは、帝国裁判制度評価の見直し。最高裁判所が二つ(1495年、改革派が帝国最高法院を設置。それに対抗して1498年、皇帝が帝国宮内法院設置。)あきらかな二重行政に見えますし、実際それまではあんまり有効な裁判所ではなかった、との評価がされていたそうです。
ですが、最高裁判所がこうして制度になることで、領邦のあまりにひどい裁判には、帝国が帝国法をもって口出しできるようになり、魔女狩り裁判が減少したり、農民の武装蜂起が裁判に切り替わったりするようになったとか。中世ドイツといえば魔女狩りなイメージがありますから、少しは魔女も暮らしやすくなった、のでしょうか?

想定外の最期

  • 2013/01/29(火) 21:37:31

ドイツ夜間防空戦―夜戦エースの回想 (光人社NF文庫)

「ストライクウィッチーズ」続きで。
前述の通り、姫様のモデル、ハインリーヒ・プリンツ・ツー・ザイン=ウィトゲンシュタインと、劇場版で挿入歌「ラインの護り」を歌うなど、準メインの役割を果たしたハイデマリー・シュナウファーのモデルであり、連合軍爆撃部隊から「サン・トロンの幽霊」と恐れられたヴォルフガング・シュナウファー。この二人も登場するのが、W・ヨーネンの「ドイツ夜間防空戦」です。著者のヨーネンもまた、敗色濃厚のドイツ本土防空戦のエースでした。彼を中心に、小説のような筆致で、ドイツの夜間防空戦の様子が描かれます。プリンツやシュナウファーは、ヨーネンと同じ部隊ではありませんでしたが、同僚の話や同じ基地に所属した際のエピソードが描かれています。また、彼らのその後の人生にも少し触れられています。プリンツは勇戦を続けた後、敵機に撃墜され戦死。一部では「指揮官の器ではない」といわれた彼ですが、本書では彼のことを「勇敢で模範的な飛行将校」と評価しています。シュナウファーは戦後、家業のワイン卸売をついで働いていましたが、仕事中にトラックとの自動車事故で亡くなっています。
バルクホルン夫妻といい、パットン将軍といい、この時期はえらく自動車事故死の割合が高いように思います。エーリヒ・ハルトマンがバルクホルン死後に自動車運転を控えたのも頷けますね。

追記:上記の面々以外にも、ストパンのモデルでいえばロザリー・ド・エムリコート・ド・グリュンネのモデル、ロドルフ・ド・エムリクール・ド・グリュヌもまた、自動車事故でケガしています。

「姫様」の名前

  • 2013/01/24(木) 22:23:55

「劇場版ストライクウィッチーズ」を年始にみました。本来の主人公たる501JFWのウィッチはもちろん、テレビ版には登場しないウィッチがたくさん登場しています。
そのなかでも目立ったウィッチがいました。

ハインリーケ・プリンツェシン・ツー・ザイン=ウィトゲンシュタイン。通称「姫様」。その名の通り、王公のような風格で大量出現したネウロイ迎撃に向かうべく、ウィッチに檄をとばしていました(あんたこそ上がれよ、との声もありましたが)。1場面しかアニメにでていないのに大人気なのは、この姫様キャラゆえでしょうか。(そういえば、姫様の声は「fate」シリーズで同じく姫様キャラ、セイバーを演じた川澄綾子さんでした)


さて、ストライクウィッチーズのウィッチは、基本的に大戦中に実在した撃墜王をモデルにしています。この人にもモデルはおりまして、ハインリーヒ・プリンツ・ツー・ザイン=ウィトゲンシュタイン。ドイツ空軍夜間戦闘機のエースでした。

で、このうち、えらく長いハインリーヒさんの名前ですが、調べると長いなりに意味もありました。

ハインリーヒは、名前。

プリンツは、あだ名(だから本名にはありません)。

ザイン=ウィトゲンシュタインは家名。現在のノルトライン=ヴェストファーレン州(香川真司のいたドルトムントが有名な州)にウィトゲンシュタイン城を持った伯爵家で、神聖ローマの領邦国家のひとつ。ハインリーヒの家柄はその分家で、先祖はロシア帝国軍に参加してナポレオンと戦った将軍(たしかに、ナポレオンのロシア戦役にウィトゲンシュタイン将軍ってのがいました。)・・・まあ、細かいことはよーわかりませんが、まず名門です。

で、問題は残る「ツー」。家名はザイン=ウィトゲンシュタインなんですが、なぜかこの一門は「ツー」が入っています。称号でもないし、辞典をみてもツー(ZU)に称号的意味合いは見当たらず。で、ネットでひいたら…一発でした。

ツー(ZU)は、ドイツ人貴族の名前によく聞くフォン(VON)とほぼ同じ意味。ただ、ツーを名乗る家は概ね新興家門。フォンの後ろにつく名前は、かつて領有していた発祥地を示すのに対して、ツーは今の支配地をあらわす、とか。
・・・いや、Wikipediaの記述ですからもちろん裏付けはいりましょうが、今日ちまちま調べたらそんな感じでした。ネットってすげぇな・・・
取り敢えず、「姫様」(あるいは「王子様」)は本当に姫様(王子様)でした。

「エライ人」の家族

  • 2013/01/20(日) 20:49:20

彦九郎山河 (文春文庫)

京都は京阪三条駅前に、膝をついて北のほうを睨んでいる侍の像があります。
京都住まいの人はこれを土下座像といい、三条や四条にいく際の待ち合わせに使います。
この像のモデルが、吉村昭「彦九郎山河」の主人公、高山彦九郎です。
一応、いまの教科書にも、寛政三奇人(高山彦九郎、林子平、蒲生君平)として載っています。しかし「海国兵談」の林子平や「山陵志」の蒲生君平のような目に見える功績はなく、土下座像だけが一地域で有名になっている印象を受けました。
彼の故郷は群馬太田市。南北朝の武将・新田義貞の本拠でした。今年はじめに、新田義貞の遺跡を尋ねた際には、彦九郎の記念館や自宅跡の碑が整備されていました。説明などによれば、高山家は新田義貞に遣えて鎌倉倒幕や南北朝動乱に尽くした、朝廷尊敬の念が強い家だったようです。彦九郎も勤皇家の儒学者として、全国に知人や学友のいる著名人でした。しかし、兄との折り合い悪くかったようで。彦九郎が親の死を受けて3年間喪に服したところ兄貴に「喪中など偽りで、隠れて不穏なことをしとる」と訴えられ投獄され、出獄後江戸にでてからは故郷に帰ろうとせず、全国を旅してまわっています。まあ、投獄までされちゃ帰れんわな…
兄弟間で対立があった偉人は小林一茶(継母・義弟と父の遺産をめぐり対立)、南方熊楠(実弟と対立)なんかが有名です。ただ、彦九郎は実の兄に誣告、投獄されており、並の仲の悪さではありません。
なんでここまで仲悪いのか・・・その答えの一端が、「彦九郎山河」で触れられていました。それは、祖先以来の根深いもの。
先に書いたとおり、高山家は累代「新田義貞に仕えた勤皇の家柄」というのを誇りとしており、武家政権に対して反抗心を持っていました。彦九郎はその家風を継ぎ、のちに京都で天皇家の衰退を嘆いて「尊号一件」で朝廷側として奔走、こと敗れてから九州で自害する際にも御所を向いて死のうとするなど、勤皇思想の強烈な人物でした。一方の兄は思想に感心を示さず、領主=武家政権の手先と仲良くなることで高山家を支えようとしました。実利を求めた兄にとって、勤皇思想にかぶれ、幕府に楯突く弟は邪魔そのものだったのでしょう。
こういう兄のような人は、後生必ず悪く描かれます。南方熊楠の弟も、熊楠のエラさを理解できず、支援を打ちきり邪魔者扱いしたとして、大概悪役です。

・・・でも、幕府全盛に見えた時代、反幕府を掲げて奔走する弟や、高いカネかけて留学したのに帰ってきても訳のわからん研究に没頭して働かず、政府に睨まれてる人物(孫文とか)と交流する兄貴を持ったら・・・

正直、笑って受け流す自信はないですね…
当時の人からは「変人の家族」と見られ、後世の人からは「偉人の業績の足をひっぱった」と非難され…偉人の家族のツラいところ、といえるかもしれません。

浪々を選んだ結果

  • 2013/01/19(土) 20:12:53

仇討を考証する (旺文社文庫)

前回の「町奉行を考証する」と同じ著者による、時代劇の定番たる仇討ち考証。仇討ちのやり方(所定の手続きが必要)から仇討ちの定義、目弱王の仇討から曽我兄弟、忠臣蔵など有名無名の仇討ち一覧など。
なかでも、仇討ちの成功例は全体からみればほんの一握りというのは驚きです。現在のように通信手段が発達していない江戸時代、仇に逃げられると足跡を追うのは至難だったようです。まあ、今でも十年単位で逃げ回る指名手配犯もいるわけで、その辺は変わらないのかもしれません。

浪々を選びて候

戦国武将・日根野弘就を主人公にした時代小説。日根野弘就といえば、独特の兜製作で知られる人物ですが、本編は題名の通り、美濃斎藤の家臣だった彼が、主家滅亡後に「打倒信長」の信念に燃えて浪々と流転していく日々を描いています。合戦では信長に負けない、という自負から信長の勢力伸長を過小評価し、信長の家臣となったかつての同輩にどんどん差をつけられ落ちぶれていく様は、「過剰な自信で身を滅ぼす」という点で「山月記」の主人公に通じるものがあります。

個人的には、本編後の弘就の人生を描いてほしいです。特にその最期。俗説なんでしょうが、とんでもない死に方をしていますから…
(なお、日根野家は弘就の孫・吉明が死去後、養子の相続が認められず改易されました)

朝からみぞれ

  • 2013/01/14(月) 19:28:05

大内義弘 (中世武士選書)

中世武士選書の最新刊。南北朝から義満期まで活躍した大内義弘の評伝です。鎌倉末期の長門の状況にはじまり、南北朝一統、明徳の乱での活躍から一転、義満の挑発を受けて決起し、堺で戦死するまで。なかでも、義弘が大内氏の出自伝承(大内氏は百済王族の末裔を自称)と倭寇討伐の功績から、朝鮮に領地を要求し、朝鮮王もそれに応じようとするくだりなど、現在の対外関係ではありえない逸話が印象的です。

零戦撃墜王―空戦八年の記録 (光人社NF文庫)

推定撃墜数150機以上、日本軍最高スコアの撃墜王だった岩本徹三が戦後若くして亡くなったあと、書き残されたノート類をもとに編集されたもの。中国戦線から真珠湾、南方、ラバウル防空戦などでの戦闘とその合間の生活が、読みやすい文章と基地や戦場の模式図で理解が進みます。
しかし、初陣で4機(+不確実撃墜1)撃墜していたとは・・・栴檀は双葉より芳し、を地でいく逸話です。

電車では本が進みます

  • 2013/01/13(日) 20:06:18

で、飯盛山城までの行き帰りで読んだ本など。

稲垣史生『町奉行を考証する』旺文社文庫(1985)

時代考証をされている方が書いた、町奉行の仕事について。与力・同心の職掌、世襲ゆえのいいところ(代々取り調べをするので尋問方法が洗練され、被疑者の自白を引き出しやすい)、町奉行は江戸の四割しか管轄していなかった(寺社、武家屋敷は管轄外)など、面白い話が多かったです。

寺田寅彦全集十三巻『日記』(1961)

震災後、注目されている寺田寅彦の日記。有名人になると日記とか公開されるんですね。短文での簡潔な記載が多いですが、奥さんの死去、子供の誕生などの人生の節目、師・夏目漱石や田中館愛橘との交流なんかが端々にでます。「夏目先生を訪う」多すぎじゃねえか、と思わんでもない時期も。
また、藤村操の自殺、日露開戦、旅順要塞陥落、第一次大戦など、歴史の大事件もさらっと書かれており、寅彦が生きていたのはどういう時代でなにがあったのか、よくわかります。

みよしけ・飯盛山城

  • 2013/01/13(日) 19:45:50

四條畷と大東の境にある、飯盛山に登りました。ここは戦国時代、畿内をおさえた大名・三好長慶の拠点のひとつ。山上には大きな山城が構えられていたそうです。
野崎駅で降りて、まずは野崎観音を目指します。商店街を抜けると、石段が聳えるお寺が現れました。
野崎観音は行基が建立したとかいう由緒ある寺とのこと。階段を登りきると、出初め式なのか消防団の人たちがお参りしています。本堂脇、ハイキングコースの案内板に従い上ります。ハイキングの名所らしく、たくさんのハイカーとすれ違いました。寺のすぐ上にある、鎌倉末期建立の石塔を過ぎ、休憩所まで汗をかきかき登山。いくつかある休憩所を過ぎ、飯盛山城と接する野崎城に到着。あまり整備はされてませんが、たしかに空堀のようなものが見えました。野崎城の説明書によれば、南北朝時代に飯盛山城よりはやく造られた城で、四條畷合戦の北軍陣地でもあったとか。たしかに、城跡からはもやがかかっていたものの、四條畷方面がよく見渡せました。

続いて、飯盛山を目指します・・・と、通常の太いハイキングコースと、細い道との分岐を発見。迷わず細い方に入りました。
ところが、さっきまであれほどいたハイカーがまったく消えます。人っ子1人いねぇ。

あれ、もしかして、やらかした・・・?

とも思いましたが、引き返すわけにもいかずそのまま前進。途中、明らかに人の手で割られた石を見つけました。飯盛山城の石垣でしょうか?それとも別の時期のもの?
あまりの暑さに上着を脱いだ頃、やっとこ人影を見かけました。ここまで40分くらい無人の道のりを歩いてました。
そこから、一旦山あいの公園みたいな所に降りて、改めて登山開始。すぐに電波鉄塔につきました。この鉄塔周辺が、飯盛山城千畳敷郭と言われる場所です。出入口と思われるあたりには石垣が築かれ、それと分かる土塁も残っていました。年輩ハイカーのみなさんが大人数で昼御飯を食べています。その横をぬけ、鉄塔を過ぎると下り坂。その向こう、少し小高くなった山の上に、甲冑姿の像が背を向けて聳えていました。これが、楠木正成の長男。四條畷で討死した楠木正行です。岩はだを登り、像の正面に立つと、案外に幼い顔つき。戦死時点で二十代前半とされているからでしょうね。
像の向かいには、飯盛山城の案内板と城跡の石碑。そして、なんか明らかに他の休憩所より年季の入った建物がひとつ。屋根のほうには「揚宣威國」の文字が。「國威宣揚」でしょう。案内板によれば、戦前の国旗掲揚台のあとだとか。
そこから山を降り、楠公寺から四條畷市街へ降りました。途中、林道に紛れ込んでみたり、行き止まりに行き当たったりもしつつ、昼2時頃までには四條畷神社、正行墓所を巡って帰途についた次第。

しかし、像から神社から、住所(楠公って住所があります。)まで、四條畷は正行押しでした。やっぱり、楠公は強いなぁ・・・


あれ?みよ・・・しけ・・・?

1月10日

  • 2013/01/10(木) 22:32:48

今朝、ラジオを聴いていましたら、関西で有名な映画評論家・浜村淳さんがご自身の番組で誕生日祝いを受けていました。そういえば、数日前の放送でそんなことをいってました。それで気になって、なんとなしに今日おこった出来事や今日が誕生日の有名人について調べてみました(いや、ネットに聞いただけなんですが。)すると、結構すごい日だったようで、カエサルのルビコン渡河(「サイは投げられた!!」)とか、小石川養生所開設とか、国際連盟設置とか。
あと、今日誕生日の有名人では、ミシェル・ネイ元帥。ナポレオン大陸軍きっての勇将です。日本人ならだれもが目にする(したい)お札の顔、福沢諭吉。存命の人物では、TOKIOの山口達也さんや声優の柚木涼香さん、そして福圓美里さんが誕生日でした。
福圓さんについては最近、「ひだまりスケッチ」、「ストライクウィッチーズ」や「ガールズ&パンツァー」でその声をよく聴いていたので、なかなか面白い偶然でした。

そんな今日、購入した本は
零戦撃墜王―空戦八年の記録 (光人社NF文庫)
福圓さんが主役の「ストライクウィッチーズ」では「岩本徹子」という名前で(女性として)登場する撃墜王・岩本徹三の自伝です。まだあんまり読んでいませんが、戦闘中の航空機の動きが図示されていて見やすいです。結構戦記ものでは、文章だけで表現されると部隊の動きがわかりにくいことが多いので助かります。文章も読みやすく、これからの展開が楽しみになる自伝です。

はじめに

  • 2013/01/09(水) 20:56:14

このブログは、とらいちの平凡な暮らしを淡々と描くものです。過度な期待はしないで下さい。あと、画面からは4メートル離れて(以下略)

いけません。どこぞの三姉妹漫画みたいになるところでした。

さて。

昨年末、家の大掃除をしました。しかしながら、いっかな部屋は片付かない。
原因は何かと思うに、気づきました。本類が多すぎるのです。
少し減らそうと売りにも出しました。
ただ、それらの山を見ていて思いました。ここにある本のうち、どれだけの中身を覚えているだろうか、と。
場所とるだけであんまり生かせていないのではないか、と。
だから、今回ブログを借りました。その場その場でその日あったこと、読んだ本の感想なんかを書きとめとけばそれなりの実になるんじゃね?ということです。あと、公開にしておけばそうそう下手なことは書かないし、文章の練習になるかな、とも思いまして。

そんなこんなで、これからはじめていきたいと思います。…いやほんと、過度な期待はしないでください。


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