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ジャパニーズ&パンツァー

  • 2013/02/28(木) 22:31:39

放送延期になっていた、『ガールズ&パンツァー』最終二回が来月いよいよ放送になりますね。最近では、ガルパン効果で戦車模型が前代未聞の勢いで売れているとか(特に四号戦車は品薄)、なんて時代だ。

それにあわせた訳ではない(こともない)んですが、戦車のおはなしを二つほど読みました。
日本戦車開発物語―陸軍兵器テクノロジーの戦い (光人社NF文庫)

激闘戦車戦―鋼鉄のエース列伝 (光人社NF文庫)

前者は日本軍が第一次世界大戦ののち、「戦車とかいう新兵器やべぇよ・・・やべぇよ・・・」となって、ナウな軍部に馬鹿ウケしてた、戦車研究開発をはじめてから、太平洋戦争まで戦車開発部門で活躍した原乙未生陸軍中将の伝記。技術面からみた日本軍戦車部隊の発展と滅亡の物語です。二冊めは、実際に戦車を率いた部隊長たちの物語です。満州での初陣から長城突破戦、日中戦争での活躍をへて太平洋戦争で壊滅するまでの戦車エースの戦記。著者によれば、この二冊は製造者と運用者両面について述べた姉妹編なんだそうです。

しかし前者の主人公・原さんは、優秀な技術将校なんですが、どうも間が悪い人のようで。


ヨーロッパに派遣されて、あっちでナウい戦車運用勉強してきたで!これレポートな!!
⇒日本到着直前に二・二六勃発。レポート放置される。

今のままでは陸軍はアカン。ドイツの電撃戦や国防軍の現況を調べてきたで、これレポートや!!報告会もあるで!
⇒対ソ連作戦、バルバロッサ発動。関東軍特殊演習(事実上の対ソ連開戦準備)開始。報告、スルーされる。

間が悪いっていうか。不運。これらの報告がしっかり受け入れられていたら、陸軍の機械化軍備も改良されたかもしれないそうで、いろいろ取り返しのつかない不運だったかもしれません。例えば、「装甲へこんじゃう」とか言われるチハタンの不遇もいくらか改善された・・・かな?

また、後者にはガルパンの主人公・西住殿のモデル、「軍神」西住小次郎戦車長も登場します。日中戦争で活躍し、戦死後は歌にもなり、胸像も作られました。

その歌「西住戦車長」に疑問を覚える歌詞があります。

上海はるか南京に
進む戦闘三十四度
足も戦車も傷つけど・・・
(軍神西住戦車長(昭和十四年発表))

戦車に乗ってるのに、なんでケガすんだ?対戦車砲や手榴弾で撃破されたなら、戦車ともども生きてられないんじゃ・・・てっきり歌詞は美文のための文飾だと考えとったんですが。
その答がここにありました。

当時の戦車は、現在の戦車のように気密性はよくない。窓の隙間などから、砕けた弾丸の破片が飛び込むのである。・・・中略・・・このため、西住は、この戦闘間(羅店鎮の戦い)だけで、五十余ヵ所のキズをうけている。
(豪勇・西住戦車隊長、PP74)


なんというリアル鋼鉄の棺桶。飛行機でも潜水艦でも、初期型なんてのはどこもこんなもんなんでしょうが・・・

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青の一番(ブルー・プルミエ)

  • 2013/02/28(木) 21:37:57

撃墜王 (文庫版航空戦史シリーズ (12))
今日は『ストライクウィッチーズ』のツンツン眼鏡、ペリーヌ・クロステルマンの誕生日です。
そんな佳き日に、ペリーヌの元ネタさんの本を読みなおしました。
ペリーヌのもと、ピエール・クロステルマンは自由フランス空軍の所属で、イギリス軍機でドイツ軍と戦った経験を本にしています。叙情的な描写が得意なようですが、サン・テグジュベリといい、フランスのエースは文才あるひとが多いのでしょうか?
さて、ストパンではもっさんこと、坂本美緒にゾッコンな(死語)ペリーヌさんですが、もとのピエールさんは日本軍と戦ったり、言及したりすることは(この本では)ありません。むしろ、直接戦っていたドイツ軍のヴァルター ・ノヴォトニーの戦死を悼むなど、敵ながら強大なドイツパイロットに敬意をもっていたようです。しかし、後には日本軍の航空作戦を評価していたとのウワサ(言及した本もあるらしいですが未見)もありますから、ホントはどうだったのでしょう。
戦後には、「大空のサムライ」坂井三郎(坂本美緒のモデル)は世界的に有名になり、フィンランドのエイノ・イルマリ・ユーティライネン(もちろん、エイラのモデル)も日本人インタビュアーに「サブロー・サカイは来ていないのか?」と訊くくらいでしたから、ピエールさんが坂井さんのことを知っていたのか、もし会ったりしたらどんな会話をしたのか、気になるところです。

これからの「善」の話をしたら

  • 2013/02/22(金) 21:47:13

西田幾多郎『善の研究』岩波文庫・1979(文庫発行年)

旧制高校生の必読書だったという、京都学派・西田幾多郎の代表作。外部からの刺激をうけた際、眼前の事物を過去の経験や記憶で定義する以前の段階、「純粋経験」を人間の基礎とし、「善」とはなにか、さまざまな解釈のあるなか、なにを正しい「善」とするか、宗教や神の在り方にまで言及した・・・すみません。何いってんのかわかりませんね?私もわかりません。一回読んだだけではワケわかりませんでした。ただ、久し振りに頭使いまくる読書だったと思います。文章ひとつひとつをよく考えていかないと訳がわからなくなる、しかもよく考えたら得心できそうな気分になる・・・頭を使うのはパズルもそうですが、「善の研究」の場合、答は読んだ人が自由に考えをめぐらす裁量をより広く与えられていると思います。各人の読み方や答があるというか。このあたりが、いいアタマの体操になると思いました。

巻末解説によれば、この本の原型は旧制高校での授業だったとか。旧制高校レベル高ぇな…さしずめ、今でいうサンデル教授のような白熱教室だったんですかね・・・

しかし!!

「定型的な学説の紹介や解説をもって能事とせず、必ずしも学生の理解を念頭に置かず、本格的な体系家としての自己自身の思索を傾注して憚らず・・・中略・・・先生はいわゆる教師ではない。しかもそれによってかえってもっとも良き哲学の教師だったとも言えるであろう。」(下村寅太郎・解題)

・・・よくも悪くも、今の時代では白熱はしなさそうです。

店員さんが、紙袋でなくトートバックをくれました

  • 2013/02/18(月) 20:14:46

久し振りのデカイ買い物です。

信濃の山城と館1 佐久編 縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

長野は佐久平の山城跡を踏査した筆者のイラストつき中世城郭調査ノート。以前、佐久にいった時に見た伴野氏館跡をはじめ、山城から見張り陣地跡まで、地元ゆかり(なんでしょう、多分)の中世山城や武士の館跡が描かれています。大部な本ですし、本文手書き(!)ですが字も絵もきれいなので、見ていても飽きません。なかのコラムも面白いです。山城歩きの最中に野生動物に会うくだりなんかは、人ごとでねぇ…

しかし、こういうの見ていて思いますけど、他に仕事があってもこれだけの成果を出せる郷土史家、在野史家ってのはすごいですね。

ナルトと古城・犬山城

  • 2013/02/12(火) 21:22:06

岐阜城で案外時間を食いました。続いてバスで名鉄岐阜駅から犬山遊園に向かいます。
目指すは国宝天守の城、犬山城。川のほとりにちんまり建つ城です。

4時ごろに犬山遊園に到着。電車からも天守が見えていましたからそんなに遠くないのでしょう。
川沿いに歩くと見えてきました。小高い丘の上に天守がそびえます。

急ごう、と、神社の近道案内を見ながら進むと、稲荷神社の千本鳥居のところで記念撮影している外国人に遭遇。
撮影の邪魔にならないよう、いったん退くと、きれいな日本語で「スミマセン」といわれました。
見れば、どうも「ナルト」っぽい法被のような衣装を着ています。日本の漫画でも人気があるそうですから、そのファンの人なんでしょうか。
ジャパニメーションの浸透っぷりに感嘆しつつ、犬山城入場口までくると。目の前で城門が閉まりました。

え、なにこれは…?案内板を見ると、「開場は16:30まで」。時計を見ます。過ぎてる…

なんとか天守を拝もうとしましたが、木々でかくれて見えず。電車の時間もあるゆえ、撤退。
帰りの駅で購入した「ジョージア・でら珈琲二代目(甘さ控えめ)」を飲んで、

「まったく控えとらんわ!!」

と八つ当たりしつつ、帰るハメになりました。無念。

天下布武のはじまり・岐阜城

  • 2013/02/12(火) 21:09:48

この連休は冬らしくよく晴れました。最近は雪も多かったので心配していましたが。
さて、三連休初日。岐阜城跡、旧稲葉山城跡にやってきました。岐阜に来るのは夏の飛騨高山攻め以来、岐阜市に来るのは、実は初めてだったりします。名古屋から岐阜行きに乗り換え、鉄路から清洲城模擬天守なんかをみながら、すぐに岐阜駅に到着です。駅に降りると、思いの外寒くなく一安心でした。路線バスに乗って、岐阜公園に向かいます。
バス停で降りれば、目の前に断崖絶壁の山が聳えます。これが金華山、その山頂にチョコンと見える白塗りの建物こそ、目指す岐阜城天守閣です。山頂まではロープウェーもありますが・・・

かつて難攻不落を謳われた岐阜城の堅牢さ、その身で体験するには登山が一番!天気もいいし!
ということで、自力登頂を目指します。岐阜城は山城であると同時に金華山という登山スポットでもあり、登山口はいくつかあります。なかでも、信長時代にも大手だった七曲口を登ると一番楽らしいです。しかし、その七曲口から少し外れ、岐阜公園の外側にある百曲口をあえて選択しました。ここは信長が斉藤龍興の籠る稲葉山城を落とした時、木下藤吉郎が少数部隊でよじ登り城内を撹乱、斉藤軍の士気を崩した殊勲の道でもあります。
また、かつてマガジンで連載されていた「TENKAFUBU信長 全9巻完結 (少年マガジンコミックス) [マーケットプレイス コミックセット]」という漫画では、信長自身がよじ登っていました。蜂須賀小六が滑落しかけるような悪路に描かれています。さぞかしエグい道に違いない・・・と近くのコーヒー店で腹ごしらえしてから、いざ登頂開始です。
百曲口は岩場が多いのが特徴です。もちろん登山道なんで、階段なんかもあって整備されていますから、前述したような滑落の危険はありません。ある意味拍子抜けするくらい快適な道でした(大和高取城や近江観音寺城に比べれば)。ただ、岩場だらけってことは濡れたら滑りまくるでしょうから、整備されてなかったであろう戦国時代には危険な道だったでしょう。
若干キツかったのは最後の900メートルでした。岩場しかない上にそれまでの疲労がありましたから。それでもゴール(ロープウェー駅)につけば天守閣まではすぐでしたから、軽く汗をかくくらいでした。・・・夏でなくて良かった。

天守閣からの眺めは、さすがに絶景です。濃尾平野というだけに遮る山もあまりなく、長良川が滔々と流れる様がよく見えました。

ただ、そこから見ると、確かに岐阜城は山頂付近の平地が少ないです。ものの本には、岐阜城は大兵力の展開に向かない中世型の山城であり、兵力がものいう戦国合戦では幾度も落城しているのはそのせいだとか言われてました。登山口から天守閣までに「唯一の平地」と書かれていた馬場跡は、平地といっていいのか怪しいくらいの狭さ。山頂から山下の敵を追い払うのには向いていても、一度山頂に攻めこまれたら反撃に使う予備戦力を駐屯させる余裕はないかもしれません。まあ、山上が狭いので敵軍も少数兵力しか展開できないでしょうから、各個撃破されて叩き落とされる危険はありますが。
あと、山上が狭ければ兵糧や武器の保管もそんなにできず、兵糧攻めされたらヤバそうです。百曲から突入した木下隊が兵糧を焼き払ったというのも、そのへん見越していたのでしょう。山上には、その時秀吉が初めて「瓢箪」を掲げた場所がありましたが、どこまで本当なのでしょうか。

帰りは七曲口を降りました。確かに整備されていて楽です。すれ違う人がみんな挨拶してきますが、やはり城というより登山の側面が強いということでしょうか。
稲葉山を制圧した信長は、ここを「岐阜」と改称し、天下布武の第一歩を記したのは有名です。岐阜城は安土城が出来てからも重要拠点のひとつでした。
そんな岐阜城を訪れた貴族は、この七曲口から天守まで登ったそうで、「めっちゃ疲れた。風景?みてねえよしんどいのに」(意訳)と日記に書いてあるそうです。

山下では現在も信長の御殿跡発掘の真っ最中でした。あっちこっちにシートがかかっています。
そのまま、ロープウェー駅でおみやげを買いました。武将ハンドタオルシリーズ、信長、道三や森長可、仙石秀久はまだわかるとして、なんで一柳直末をラインナップにいれたんでしょうか?

「せやな」と言う東京人

  • 2013/02/04(月) 21:00:18

標準語はいかに成立したか―近代日本語の発展の歴史

客「前に買った靴に「噛まれ」ちゃってさぁ・・・」
客2「へぇ・・・」
店のマスター「お客さん・・・あんた・・・和歌山県民だね(ドヤァ)」


しゃらくさいわ!!

・・・失礼しました。某もんたさんの番組でそんなシーンがありましたもので。
和歌山では、一般に靴擦れを「靴に噛まれる」といいます。父母に至ってはこの用法を標準語と思っていました。私も、関西では通じると思っていたんですが・・・
今回は、そんな方言と標準語のお話です。
この本は、戦国から江戸を経て、戦前までの標準語の成立過程をおったもの。なかでも興味深いのは、戦国時代の宣教師が作った日本語辞典にかかれた標準語についてです。
例えば、「おいしい」の当時の言い方「いしい」や、「ひもじい」「おふる」などは女性言葉なので使うとバカにされます、とか。つまり戦国時代に「おいしい」とか言ってる男はオネェになるわけですね(違います)。
また、いまでは「標準語」といえば東京などの言葉(関西では「関東弁」「東京弁」ともいいます)ですが、戦国あたりまでは「標準語=京都の言葉」であり、江戸言葉は田舎者扱いだったとか。つまり、首都の言葉が「標準語」扱いだったようです。

では、明治維新当時にあったとかいう大阪遷都構想が日の目をみていたら・・・今頃標準語は大阪弁だったかもしれないわけです。国会答弁や国際会合で首相が関西弁で演説する、日本語を学ぶ外人がみんなスティーブン・セガールみたいなコテコテ関西弁を話す、そんな世界があったかもしれません。

紀州藩のアーチャー

  • 2013/02/02(土) 19:36:50

京都駅から東へむかい、鴨川を渡ってまっすぐいくと三十三間堂があります。かつて、このなかで弓の名人が「通し矢」を競いました。「通し矢」とは、三十三間堂の長い廊下(121メートル程度)を端から端まで弓で打ち抜くというもの。今では成人式前後に、新成人が弓を射る行事としてその名前が残っています。江戸時代に盛んになったこの競技で、未だ破られぬレコードをつくったのは紀州藩の武士だったと、京都に住んでいたころにききました。で、最近、その武士のお墓がよく行き帰りに通る県道9号線沿いにあると聞き、久々に気温も程よい上天気なので探してみることにしました。

自転車で岩出市内を和歌山方面へむかい、和歌山の表示版のあるあたりで脇道にそれます。小川沿いに堤防を走ると、前には紀の川にかかる鉄橋。これを渡って布施屋につきます。「ふせや」じゃありません。「ほしや」です。何故か。
そっからは、辻辻に熊野古道の案内板がありますから、それに沿って走ります。世界遺産で有名な熊野古道ですが、このあたりは案内板がなければただの農道にしか見えません。かつての熊野九十九王子の横を、トラクターがポンポン走っています。案内板に沿って、そんな農道を走ると和佐の庄屋、中筋家屋敷。外からみても立派な門構えです。生憎、公開は3月からなので、先を急ぎます。
熊野古道と、県道9号線が合流すれば、ここから伊太祁曽(いだきそ。伊太祁曽神社が有名)方面への抜け道として、俄然交通量が増えます。その道をトラックに気をつけて走ると、上り坂の途中、和佐王子跡すぎてすぐの林のなかに、「弓の名人・和佐大八郎の墓」という看板がありました。これは車では気がつきませんね。この林は、近隣の墓地らしく、目指す大八郎以外にもいくつか古そうなお墓があります。「イノシシ注意」の看板の横、斜面を上ると、お墓のなかにひとつ、読みにくい立て看板のついた墓石がありました。これが、紀州のアーチャー、和佐大八郎のお墓でした。立て看板がなければ、周囲の墓石と判別できなかったかもしれません。

和佐大八郎(1663~1713)はこの地で生まれ、長じては弓道に志しました。三十三間堂の「通し矢」に挑戦したのは貞享三(1686)年、二十四歳のとき。一昼夜に八千百三十三本を射抜きました。当時の最高記録は八千本程度だったので、彼は一躍ときの人となります。今なら、地元からオリンピックのメダリストを出した感じでしょうか。特にこの「通し矢」は、紀州と尾張が二強となって記録争いをしていましたから、晴れて全国一位となり、面目をほどこしたのですから大騒ぎだったでしょう。紀州藩も彼の功績を買い、俸禄の加増を行っています。しかし、晩年は不遇で、弟の女性問題の責任を取らされて田辺城に閉じ込められて亡くなったとか。今も彼は、「知る人ぞ知る」くらいの知名度であり、徳川吉宗や南方熊楠、華岡青洲のような郷土の偉人として取り上げられることもありません。中学校で武道の必修化だの、和歌山国体が近いだの言ってる昨今、この隠れた日本記録保持者をもっとアピールすりゃいいのね。

※大八郎の墓があった山は、南北朝時代の龍門山合戦で使われた和佐山城の跡地とのこと。またいずれ登りたいと思います。


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