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伊予見聞記2-伊予の諸城-

  • 2013/03/31(日) 21:23:04

伊予見聞記、今回は登城した松山城、湯築城、大洲城、今治城についてです。
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早朝から起きだし、松山城を目指します。東雲神社下から、ウォーキングの皆さんに混じって登山。平山城という割には高い山の上にあるようです。山頂では、人も少なく、静かな松山城を堪能できました。桜と朝靄のなかに聳える松山城とは佳いものをみました。

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帰ってから、自転車を組んで松山第二の城跡、道後の湯築城跡へ。中世伊予の支配者、河野家の居城でした。こちらはうってかわって土盛の円形平城。再現区画などみていると、越前一乗谷を思い出します。それでも二重に巡らされた濠、小高い中央部に登れば松山城をはじめ、松山市街を望めましたから、それなりの防御力もありそうです。
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三つ目は、自転車で松山から走り抜いた先にあった大洲城。肘川のほとりに建つ平城です。かつては宇都宮家(栃木県宇都宮城を治めた一族と同族)の居城だった大洲城は、藤堂高虎、脇坂安治(大洲市の市マークは脇坂家の家紋を意識しているとか)の改装を経て黒塗り四層の天守閣を持ちました。同じ黒塗り天守閣でも、近づいてみると松本城なんかに比べてピカピカの新しさがあります。実はこの天守閣、昔の模型や図面を頼りに、平成16年に完成したばかりのものでした。天守内には天守閣建造の様子を描いたジオラマもありましたが、なんとそのジオラマのフィギュア、天守再建に関わった人々をモデルにしているそうです。
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現在進行形で地域に根差した城ですね。


よく、日本海軍の艦艇はその艦橋部が天守閣に例えられます。「軍艦マーチ」にいう「浮かべる城ぞ頼みなる」とは、そんな連想から来たのかもしれません。なかでも、松山城や島根の松江城は写真にみる「高雄」型巡洋艦艦橋を連想させます。
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一方、今回最後にみた今治城。映像や写真で見たときはなんとヒョロイ天守閣かと思いましたが、いざ実物の存在感たるや。「長門」型や「金剛」型戦艦の艦橋を思い起こさせます。今治城を今の姿にしたのは藤堂高虎。城門付近の防御を重視する城郭設計の名手とのことですが、最近再建されて新築の木の匂いがする「鉄門」上の矢倉に入ってみると納得できました。
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鉄門の下の空間を三方から囲むように矢倉が組まれており、鉄門に突撃したら三方から矢玉を雨あられと喰らう仕組み。また鉄門の門扉には逆三角形のすきまが空いていて、槍を突っ込むと上にはねあげられてしまうとかいう仕組み付き。海城という特徴も相まって、正に戦闘艦のような城でした。
以上、四つが今回訪ねた城郭。宇和島城は紫電改を見に行ったらいけずじまいでした。外からは見られたんですが…宇和島駅を降りた時の海苔らしき匂いとともに印象に残っています。

また、いずれの城も、桜が多く植わっており、華やかな印象を受けました。やはり、公園化された城はどことも桜を植えるもののようですね。

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伊予見聞記1-遥かなる紫電改-

  • 2013/03/29(金) 22:20:09

今日まで、四国は宇和島、松山、大洲、今治をめぐってきました。しばらく見聞したことを書いていきます。

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朝から尾道は雨。これでは自転車でのしまなみ突破はしんどいだけと思われたので決心変更し、自転車ではいけなさそうだった場所に行くことにしました。
目指すは愛南町の山の上に鎮座する、日本海軍の局地迎撃戦闘機「紫電改」の日本唯一の現存機体です。
で、行程を調べたら

尾道~福山=在来線
福山~今治=高速バス・しまなみライナー
今治~松山=特急
松山乗換~宇和島=特急宇和海

で、この時点で夕方3時になる計算。なにはともあれ、まずは本州脱出(在来線の到着チャイムが「瀬戸の花嫁」ってのが地域性があっていいですね)。本来ならいく予定だった今治城をスルーし、重たい荷物でしかなかった自転車は松山駅前駐輪場に停め、乗り換えギリギリで宇和海に飛び乗って、なんとか宇和島に着到しました。今治は真冬のように寒かったけど、宇和島は温い。さすが南国です。
さて、ここからどうすべいか・・・観光案内所で訊きました。

受付さん「紫電改ですか?・・・まず、宿毛行きのバスが来ますから乗ってください(バスのダイヤくれる)。で、平城札所前バス停で降ります。」
私「そこから歩いて・・・?」

受付さん「いえ、タクシーです。」

私「・・・・・・・・・ファッ!?」
後で知ったのですが、バス停から紫電改までは更に三キロ近く、山を登らないといけないのです。晴れてりゃ歩いたか知れませんが・・・

たまに大事なもの見落とすか知れませんが、やっぱひとっ飛びしたほうがいいよね、と「ダンケシェン・ウィッチーズ」を聴きながらバスに揺られて一時間。最寄りバス停の平城札所前(へいじょう、ではなく、ひらじょう、でした)に到着。タクシーに乗って、いざ紫電改!!
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タクシーは山のほうへ向かっていきます。
「お客さん、どっから?・・・ああ、ミカンでは愛媛のライバルですなぁ」
とか運転手さんに送られ、建物に入ると・・・
目の前に緑の巨体が、両翼を広げていました。これが松山三四三空「剣」部隊所属の紫電改でした。思っていたより大きい・・・靖国の零戦よりゴツい気がします。
紫電改の周りには引き揚げでみつかった部品や、搭乗していたパイロット候補6人の写真と略歴、遺族の言葉が展示されていました。帰りのタクシー運転手さんの話でもでたのですが、この紫電改が沈んだ状況や墜落地点は地元の人の間では有名で、その墜落日に還らなかった紫電改が六機だったため、6人のパイロットが操縦者候補とされています。なかには「空の宮本武蔵」武藤金義(ストライクウィッチーズの主人公、宮藤芳佳のモデル)のようなエースパイロットもいました。
展示館をでて、「紫電改」の石碑の向こうに、霞がかかってみえる湾。そのあたりに、この6人のうちの誰かが今も眠っているわけですね。70年近く前、目の前の空をこの飛行機が戦い、沈んでいったとはなかなか迫るものがあります。

天才軍師の最期

  • 2013/03/16(土) 23:07:38

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金物の資料館をでてから、近くの「雲龍寺」にある別所長治夫妻の首塚にお参り。かつてはこのお寺も城内にあり、三木城が開城したとき、ここで長治は自決したといわれています。雲龍寺では毎年1月17日の長治の命日には、うどんを食べて先人を偲ぶんだとか。なんでうどんかって?ホラ、城兵は藁食って飢えをしのいだけど、流石に今藁食うわけにいかんでしょ?だから、みた感じ藁っぽいうどんを食べるそうです。
資料館でもらった地図をみると、このお寺をはじめ、高台全体がかつて三木城だったようです。かなり大規模な城郭。そりゃ力押しはできんわな。
そのまま山を下り、東へ向かいます。途中、正入寺(旧三木城、別所治定の館跡)を通り、羽柴秀吉本陣のあった平井山へ。三木合戦の折りには、別所軍による本陣強襲で激戦があった場所です。この戦いは「センゴク天正記」にも描かれていました。正入寺あたりに住んだ別所治定は、ここで討ち死にします。そしてこの地は、後世に「天才軍師」と謳われた竹中半兵衛が陣没した場所でもありました。
資料館のおっちゃんに訊いた道をたどり、恵美須町駅前の通りを左に入ると、竹中半兵衛墓所の案内板が現れました。そこから道をたどって川をこえ、少し登り坂をあがって汗を少しかくくらいに行けば、白壁で囲われた一角がみえます。これが竹中半兵衛のお墓でした(写真)。
いろんなメディアで病弱の天才軍師、とされる半兵衛ですが、その逸話は斎藤の家臣時代、シッコかけてきた斎藤龍興の寵臣を稲葉山のっとりついでにぶち殺したり、軍談の最中に小用に立った息子に「軍談の最中に小用ごときで席を立つな、ここでしろ!!」とか激怒するなど、なんか熱血な人だったのではないかと思います。

しかし、なんでこの人には小便がらみの逸話が多いんだろ?

このお墓の裏山、すこし小高い山が秀吉本陣です。のぼっていくと、てっぺん付近に本陣跡の看板があります。しかし、その場所は人一人でも生活できなさそうな狭い空間。山全体が陣地跡だったそうですから、ここは三木城を監視する見張り陣地だったのかもしれません。薮や木で遮られていましたが、そんなものが取り払われていたであろう当時、ここからなら三木城の様子もうかがえたことでしょう。三木市観光協会発行の「探訪三木合戦」では、秀吉本人はこの陣地近郊にあった長福寺とかいうお寺で生活していたのでは、とされています。

帰りも神鉄線に乗ってきました。かなりの赤字路線らしく、駅や車内の乗車呼び掛けがかなり必死。うちの近所の路線も他人事ではありません。
みんな、神鉄に乗ろう。

別所氏と刃物の町

  • 2013/03/16(土) 23:03:07

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大阪駅から電車に揺られて加古川で乗り換え、加古川から粟生(あお)で神鉄線に乗り換え。播州三木城跡にやってきました。
神鉄線上の丸駅裏、すぐのところに階段があり、白壁の塀が見えます。もちろん最近の再現ですが、ここが三木城本丸と伝わる場所です。本丸跡には、戦国時代の城主・別所氏の家紋入り鐙がみつかった「かんかん井戸」や、別所長治の石像(史実を反映した像ではありません、って立て札が良心的)なんかがあります。
また、隣接して、三木市の伝統工芸品である大工道具や刃物の博物館がありました。なんで三木は刃物が名産か?おっちゃんに話を聞くことができました。

話は戦国時代末期にさかのぼります。当時、三木城を中心に覇をとなえた別所氏は、東から攻めこんできた羽柴秀吉と戦います。堅城の三木城に力攻めは不利とみた秀吉は、城の回りを陣地で囲んで兵糧攻めを行いました。名高い「三木の干殺し」です。三年近い兵糧攻めで、城の壁まで食べるほど(土塀に入っている藁を食べた)になった有り様をみた城主、別所長治は自らの自裁、三木開城とひきかえに、三年の戦乱で荒れ果てた三木の再建を求めました。秀吉は長治の願いをうけいれます。秀吉は三木に鍛冶屋を誘致し、大工道具や刃物を作らせるようになりました。ここから、「刃物の町」三木がはじまったのです。

・・・多分、伝承のようで事実かはよくわかりませんが、たしかに、橋の欄干なんかにも「鍛冶のまち」とか書かれていました。また、このあたりでは鉄鉱石はとれないようですが、どうも中国山地からとってきていたのでは?とのことでした。隣の備中長船が日本刀が有名ですから、そのへんとの関わりもあるかもしれません。
そんな三木市ですが、来年の大河ドラマは播州出身の「黒田官兵衛」。三木城攻めの遺構も史跡登録され、来年度あたりから史跡整備もされるかもしれないなど、なかなか今後発展が期待できそうです。
(写真は三木城内にあった、長治自決の場所「雲龍寺」にある長治夫妻首塚)

天空の荒城(海抜的な意味で)

  • 2013/03/10(日) 20:32:51

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歴史群像 2013年 04月号 [雑誌]

飛騨・三木一族

毎号楽しみに買っている歴史群像ですが、今回の「戦国の城」コーナーをひと目みてのけぞりました。
飛騨高山の「飛騨松倉城」が載っとる…!!

思い返せば昨年夏、飛騨高山~信濃松本間自転車旅において、高山での目標の一つがこの松倉城でした。古本市で見つけた本で姉小路氏(本来の姓は三木(みつぎ)。後に飛騨国司の姉小路姓を名乗る)の歴史を知り、『信長の野望』でのイケメンな姉小路自綱(よりつな)の顔芸寸前のさわやか笑顔にもひかれ、飛騨に向かったのです。
(なお、当時流行の『氷菓』舞台が飛騨高山だったことも無関係でない)
松倉城に上ったのは、高山陣屋と高山城を見た、そのあとでした。高山陣屋側から駅を挟んで反対側にある、農道のような道を上っていきます。真夏の高山盆地、くっそ暑かったのを覚えています。
自転車を押し押し、ようやっと松倉城前の「松倉シンボル広場」についた時はもう夕方。公園に自転車をおいて、人っ子一人いない山道に入ります。途中、蛇の動く音や蚊の羽音を聞きつつ、

「おのれ姉小路、これでしょうもない遺構だったら、どうしてくれよう…!!(理不尽)」

と思いながら、堀切跡を抜けると。

藪の向こうに、大きな石が。

「…?」

近くによっていくと…姿を現したのはそびえる石垣!!(写真)
正直、規模を期待していなかっただけにより巨大に見えました。

そこから石垣をこえると、城郭の石垣群が見えてきます。その威容は、かつての高山市街を睥睨した松倉城の名残でした。
ここに強盛を誇り、一時は飛騨一国を手中とした姉小路氏は、越中佐々成政と組んだために豊臣軍司令官・金森長近に滅ぼされ、消えていきました。その後も金森の飛騨防衛用要塞として機能したようですが、いつしか廃城。いまや市街からも離れ、(新緑のころには結構人も来るようですが、夏の夕方だったこともあり)人もあまり来ない城跡は、インカかアステカの要塞遺跡を連想させました。

いままで、いくつかの城を見てきましたが、ここほど「荒城」風情のあった城跡はなかったように思います。飛騨に行く機会があったら、また行ってみたい城です。

磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む

  • 2013/03/02(土) 19:36:31

同じく、藤白神社には有間皇子がおなじ社内に祀られています。藤白神社本殿から右手にお社があり、そこから百メートル程度。少し農道のような細い道を歩いたら、有間皇子が最期を迎えた藤白坂と皇子のお墓があります。
謀叛の罪でこの地で処刑された歌人皇子を偲ぶひとは多いようで、新しい花が供えられていました。
有間皇子の処刑は冤罪説、前天皇の子供である有間が邪魔になった中大兄にはめられた説、本当に謀反する気だったけど協力者の蘇我赤兄(そがのあかえ。後に流罪になる。なお、戦国時代の「土佐七雄」の一家、安芸氏は彼の子孫を名乗ってるとか)に見限られた説、いろいろあるようです。いまは真相は藪のなかですが、同じくらい藪の中なのは彼の容姿。十九歳で処刑された薄倖の皇子、歌才に優れた文学少年、そんなイメージからか、どうしても線の細いイケメンを想像してしまいます。この辺、晩年五十代の真田幸村が大坂の陣でも少年のような外観で描かれたり、新撰組の面々が(写真のある土方や近藤を除いて)もれなくイケメンになってたりするのと同じものなのでしょう。
特に古代史の場合、肖像画もなにもないので容姿は後世の想像に任せるしかなく、小説家や漫画家のキャラクターが本当の容姿であるかのように思われやすいと思います。また、少年漫画がバトルの描きやすい戦国や幕末に偏りやすいのに対し、恋愛が結構表に出る飛鳥~平安ごろの漫画は少女漫画が多いイメージもあります。そんな時代の「薄倖の皇子」ですから、はかなげな美少年イメージもつくというものです。ただ、イメージというのは移ろいやすいもの。かつてイカツイおっさんだった佐々木小次郎が、美青年になったように、まったく違う有間皇子像を描いた作品が広まれば、有間皇子のイメージが変わらないとも限りませんね。

いや、だからって、めっちゃ体育会系でいかにも陰謀巡らしそうな有間皇子を見たいかと言われると…見たいような、そうでないような…

鈴木さん、いらっしゃい

  • 2013/03/02(土) 19:25:17

自転車で海南市藤白にやってきました。和歌山市から出発しようとしたら、いきなり豪雨とひょうが降ってきて焦りましたが、通り雨(通りひょう?)だったのですぐ晴れまして、出発しました。冬野から海南市に入ります。途中、黒江あたりの道は狭いですが、市内に抜けるトンネルをでると、すぐに海南市中心部へ。左に船を見つつ、そこから一キロ程度で、藤白神社に到着です。
藤白神社でまず目につくのは大楠。林のようにしげるそれは、楠神様として崇められてきた神木でした。
このあたりの人は、楠神様にあやかって、名前に「楠」をつけるそうで、あの南方熊楠の名前もここから来ています。
そこから本殿に向かうと、「鈴木さんいらっしゃい」の幟が林立していました。何事かと思えば、ここの神官だった鈴木さんが全国にいる鈴木さんの元祖だから、この神社は「鈴木さんの神社」でもあるからでした。和歌山市で威勢を誇った雑賀衆の「雑賀孫一」の鈴木一族も、ルーツはここにあるのです。
だからでしょう、参拝した鈴木さんには記念品をくれたり、鈴木一族の植樹した木が植わっていたり、本当に鈴木さん推しの神社でした。
その、元祖鈴木さんが住んでいた鈴木屋敷が神社から坂をのぼってすぐ近くにあります。かつては若い頃の源義経も訪れ、衣川で義経が自決した際に殉じた鈴木氏を家臣にしたのもここだとか。そんな由緒ある鈴木館ですが、ボロッボロになっており、室町時代造園の庭園あとの池の鯉と、池端の梅が咲いているのが、わずかに名残を感じさせる様子でした。


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