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飯に汁、木綿着物は身を助く その余は我を せむるのみなり

  • 2013/11/17(日) 20:13:53

J-47 二宮翁夜話 (中公クラシックス)


二宮尊徳―財の生命は徳を生かすにあり (ミネルヴァ日本評伝選)

二宮金次郎の像、見た事ありますか?自分の周りにはあんまりなかったんですが、一応、親戚の通っていた学校には、例の背中に薪を背負ったアレが鎮座していました。いや、鎮座じゃないね、立ってるし。

で、あの薪背負って本読んでる子はなにをしたのか?正直知らなかったので、今回その言行録と伝記を読みました。まず驚いたのは、彼は実質幕末の人だったこと。もっと江戸中期くらいの人かと思っていたんですが、ペリー来航の1853年にはまだ生きていました。なくなるのはその二年後です。
で、彼がなにをしたのか、というと…まずは農村の立て直し。「報徳仕法」という財政再建策を駆使してどんどん藩や村の立て直しを図ります。その根幹は徹底したリサーチ。村々を回り、作柄や農地の現状、居住農民の素行までを調べあげ、地域に見合った方法を編み出します。反対派は、彼の精緻なデータに「ぐぬぬ」とならざるを得なかったでしょう。その上で「当地の人に応じた収入=分度」を定め、それ以上の収入を倹約して再建にまわす、見回り(あえて注意はせずに見回る)ことで悪習に染まった人々を立ち直らせるなど、さまざまな方策を講じて農村再興、藩再興を行います。その方法は明治に入っても弟子たちによって行われ、箱根湯本の温泉街再建にも活用されていました。

二宮尊徳は「私の教科書は自然などの文にない経」である、として学者と坊主を嫌い、弟子にも自分の言行を筆記しないよう指示していたそうです。でも、もっと師匠の考えを広めたいと考えていた福住正兄(箱根湯本再建者の一人)が師匠の目を盗んで筆記し、尊徳死後に発刊したのが「二宮翁夜話」です。いろんな警句がありますが

「経文といい、経書というのはもと機をおる経糸のことだ。経糸だけでは機は織れぬ。経験という横糸があってはじめて用をなす」(夜話巻のニ、六二「書物は水のごとし」)

「大道は文字の上にあるものと思い、文字ばかりを研究して学問だというのは間違っている。文字は目印のようなものであり、そこにそって道を行ってこそ初めて道を得るのだ」(夜話巻の四、一七四「道は書物にあらざる論」)

(学問をつけるため、上京しようとする親子に対して)
「この土地を盛んにしてますます発展させようというなら上京して勉強するのもいい。しかし、百姓を賤しい仕事だ、難しい文字を覚えて世に誇りたいというならよしたほうがよい。百姓は百姓の仕事を心得ておらねばならない。百姓はつまらないという思いで学問をすれば、その学問はますますよそへ心をそらすものとなり、当家を滅ぼしてしまうだろう」(夜話巻の四、一六七「農家の子教訓」)

…なかなか耳に痛いことをいっていますね。
なお、普通に嫁姑争いの調停もやってたりします。ほんとマルチ。

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再びの「青の一番」

  • 2013/11/17(日) 19:37:03

空戦 (文庫版航空戦史シリーズ (11))

以前「撃墜王」で書いた、フランスの撃墜王ピエール・クロステルマンの著書その2。今回のは自身が経験した以外の第二次世界大戦の航空戦について書かれています。日本軍やアメリカ軍、ドイツ軍、そして自由フランス空軍の戦いが登場します。発刊当時(1951年。なかでは朝鮮戦争が現在進行形として登場します)はフランスで多いに売れたベストセラーだったとか。それも、あまり有名ではない戦い(開戦直後のフィリピンの戦い、ワルシャワ蜂起を助ける航空作戦など)が取り上げられています。また、前作と同じく抒情的な物語調の文章は健在で、とても読みやすいです。
今作の白眉は、やはり彼の同僚ともいえる自由フランス空軍の戦いだと思います。なかでもマックス・ゲジの戦いはすさまじかった。対空兵装でハリネズミとなったドイツ艦船にロケット弾をたたきつけ、被弾後も撤退できるところを再度突入して敢闘の末戦死するまでのくだりは熱の入った筆致で読まされました。その背後には、クロステルマンが持っていた戦中戦後の連合軍上層部…特にフランス軍の上層部に対する怒りがあったようです。ワルシャワで蜂起したパルチザンを見殺しにし、戦った自由フランス空軍のパイロットに報いなかった彼らに対する感情がここまでのものを書かせたのだと思います。
なお、クロステルマンというとあのもっさん大好きペリーヌさん。日本軍に関する記述もあったので、坂井三郎に関する記述はないか、とみましたが…ないんだな、これが。ただ、山本五十六に関する評価はとても高く、ソロモンの戦いでは彼の作戦により米軍は質量で勝ちながら煮え湯を飲まされた…と、なんか過大評価とも思える記述がありました。

父殺しの男が・・・!!

  • 2013/11/12(火) 21:46:04

武田信玄と快川和尚 (中世武士選書)

ここ数日、一挙に寒くなりました。普通に厚着すりゃいいものを、なぜか短パンで過ごす知り合いがいまして。こういう季節の変わり目にやせ我慢するそんな人のよく使う(?)言葉に「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」というのがあります。有名なこの言葉を発したのは快川和尚。在職していた甲州恵林寺が織田信長軍に攻められて炎上したときに発した言葉だそうです。この直後に焼死してますから、半端なやせ我慢の言葉ではなかったわけですね。
本書は、そんな快川和尚の人生を描きつつ、彼に関係のあった戦国大名の動向にも触れています。
表題の通り、和尚の死に場所にもなった甲州の武田信玄、勝頼親子との関係(信玄の葬儀の話もでてきます)ももちろん多く登場しますが、個人的には美濃斎藤氏との関係が面白かったです。斎藤といえば、信長の義父である「蝮の道三」斎藤道三が有名ですが、ここで描かれるのは道三を攻め殺した息子の斎藤義龍です。父を討ち取った義龍は姓を斎藤から源氏の姓「一色」に改めました。当時、源氏の武家は禅宗を信仰するのが一般的だったそうで、義龍も本来の斎藤家の宗派だった日蓮宗から禅宗への転換を図りました。そこに取り入って、美濃国内の禅宗勢力を一手に握ろうとした別伝という僧が義龍の威を借りて自分の寺を美濃の禅宗の中心にしようとし、それに反発した快川らの派と対立する「別伝の乱」が起こります。
乱の理由は別伝の派が快川らの主流派に対して弱かった立場を武家の力を借りつつ拡充しようとした…などがあるそうですが、個人的には義龍のこの姓と同時に宗派変更が面白いです。「自分は道三の子ではなく、旧国主・土岐氏の子」と思っていたともいわれる義龍の、姓と宗派の変更。やっぱり、斎藤氏はいやだったんでしょうかね。まあ、この斎藤氏も道三が下剋上の末に簒奪したものな訳ですが…

学問が勉強でなかったころ

  • 2013/11/05(火) 22:02:14

考古学の先覚者たち (中公文庫)

かつて、現在は理系の生物学や地学として細分化している学問が「博物学」としてひとまとめにされていた時代がありました。当時の記事なんか見てると、博物学者ってのはとても楽しそうに仕事(本人仕事と思っているのか…?)をしているように見えます。イグアノドンの化石を見つけて有名になった医師、ギデオン・マンテルのようにアマチュアでも名を成せる、そんな時期でもありました。

この博物学の日本版が「本草学」。薬草や鉱物を収集する学問で、平賀源内なんかが有名です。学者ともいえない旗本、商人が本業をのけて学問にのめりこみ、同好の人たちと交流したり、近所同士で収集物を見せ合ったり…とても楽しそうです。石ノ森章太郎の『日本の歴史』で、自分が戦国幕末期以上に好きな巻がこの江戸学問文化だったのはその楽しそうな雰囲気のせいだったかもしれません。

で、この本は「本草学」ではなく、考古学が日本でどのようにできたか、というものです。日本は江戸時代から石器や銅鐸なんかが「神代のもの」としてしられていたようで、好事家(玩石)の収集対象だったそうです。
「この世のすべては神の作りたもうたもので、神代以前のものなどない!」という主張の強かった聖書至上の西洋に比べ、神も仏もオッケーな日本では、記録以前の過去を振り返ることもそれほど禁忌ではなかったのだとか。
本書はそのような「近代考古学」ができる前の日本で、本人も気づかぬうちに「考古学」をしていた人たちの列伝です。本草ではありませんが、いろんな背景のひとがいます。玩石趣味が理由で廃嫡されたひと、蝦夷地探査のなかでアイヌ考古学に目覚めたひと。有名人では本居宣長に上田秋成…なかには、あのシーボルトの息子も登場します。それらの多くの人が、他の人の伝に友人や先生として何度も登場します。同時代人の趣味人の間でも、すでに広いつながりがあったことをうかがわせます。江戸時代、考古学がまだ学問でなかった時代。それでも充分、当時の「考古学者」は同好のつながりをもち、広い視野で研究や趣味に打ち込めていたようです。なんかうらやましいですね。


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