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関ヶ原①・sekigahara/ zero 大洗から関ヶ原へ

  • 2014/05/11(日) 21:32:04

今年の黄金週間は、行ったようで行っていなかった場所、関ヶ原へ行ってきました。
その話の前に、前年の黄金週間に行きながら書いていなかった、関ヶ原にかかわる場所のことを書いておきたいと思います。

一年前、大洗でのもろもろのあと、水戸で一泊。その後、西へ向かい、笠間から真壁へ。佐竹氏の重臣・「鬼真壁」真壁氏幹の居城でもあった真壁城を経て、結城市に入りました。

結城は、かつて関東地方の名門武家・結城氏の栄えた町。結城氏は南北朝時代にも活躍し、室町時代には「関東八屋形」と呼ばれて強勢を誇りました。
しかし、六代将軍「万人恐怖」「籤引き公方」足利義教の時代、その運命は暗転します。義教と対立した関東公方・足利持氏が永享の乱をおこし、敗れて義教に自害させられると、結城氏は持氏の子供、春王・安王を擁して決起。幕府軍が結城城を包囲攻撃する「結城合戦」が起こりました。籠城戦の末、結城城は陥落し、結城氏朝は戦死。春王・安王はとらえられ京都へ移送されていきました。
この結果、結城氏は勢力を減らし、戦国時代に結城晴朝が小田原北条氏と戦うなど名を残しますが、晴朝の養子である結城秀康が越前福井に転封した際、名字を松平に戻したため家名が絶えています。
さて、そんな結城氏の居城・結城城ははたしてどうなっているのか。足利幕府軍の猛攻にも耐えた城、きっと遺構が…
結城小学校

すごい。近世城郭やないですか!!

と思って写真にとったのですが…実はこれ、結城小学校であり、結城城じゃあないんです。なんでこんな城みたいにしたのかはわかりませんが。
で、実際の結城城は

結城城

こんな感じ。実は、戊辰戦争の際にほとんどの建物や城跡を破壊されたらしく、遺構は堀がわずかにのこるだけだそうです。いや、それでもこの堀は立派なもんですけどね!!
あと、町を流れる用水路には、城の水堀を利用したものもありそうです。

そして、夕暮れせまる結城を越え、次のまちはこの旅のゴール。小山市です。この辺は平地で、ほとんど苦労はありませんでした。
小山市は結城氏の同族、小山氏の治めた地ですが、戦国時代末期、別のことで名前を残しました。それがこの

小山評定

市役所前に立つ記念碑に書かれた、小山評定です。

慶長5年、石田三成らが打倒徳川を掲げて決起し、伏見城などで激戦が交わされていたとき、その徳川家康は、ここ小山にきていました。ここには小山氏の居城であった、小山城もあります。ここに諸軍が駐屯していたのは、米沢の大大名、上杉景勝を討伐するためです。ここで石田決起の連絡を受けた家康は、上杉攻撃軍の諸大名を呼び寄せて評定を持ちます。攻撃軍の主力は豊臣の恩をうけた「豊家恩顧」の大名が多く、大坂城を抑えた石田方になびく武将が出るとも限りませんでした。
しかし、結果は「豊家恩顧」筆頭ともいうべき福島正則が徳川につくことを一番に表明したので、攻撃軍のほとんどの大名は徳川陣営に与します。このときの福島の心中はよくわかりませんが、これにより、石田方=西軍に対抗するに足る徳川方=東軍が編成され、関ヶ原での決戦がはじまることになります。

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