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上州の虎

  • 2015/01/24(土) 09:39:27

箕輪城
箕輪城その2
今回は群馬高崎にある箕輪城から、足利・佐野を通って栃木宇都宮まで。時間の都合上1日で駆けました。
朝は6時ごろ、前橋駅から新前橋乗り換えで群馬総社駅へ。水上から北は大雪で電車が動いていない、との話を聞きつつ、自転車を組んで西の箕輪城を目指します。遠くに榛名山をのぞみつつ、ゆるく長い坂道をこぎ上る。案外、こういう道が一番疲れます。
出たときには暗かった空も、箕輪城についたときには晴れ上がっていました。
箕輪城は戦国時代、「上州の黄斑(黄色い斑=虎)」と言われた長野業正の居城。武田信玄をして「長野業正ある限り、上州に武田の旗を立てられぬ」と嘆かせたという名将です。そのお城は榛名の山裾に続く小高い丘にあり、いまでも大きな空堀が穿たれていました。城の廻りには、長野の扇、武田の菱、小田原北条の三鱗と、関係した諸大名の紋が描かれた「箕輪城」という幟がはためいています。長野はともかく、武田に北条って敵方の旗じゃなかろうか、味方だった上杉の旗をあんまり見かけませんでした。
坂道を昇ると二の丸跡に出ます。かつて、この道は井伊直政が城主だったころに搦手として使われた道。ただ、長野時代にはここが大手だったそうです。犬を散歩する地域のひととすれ違いつつ、本丸へ。周囲はよく刈り込まれており、大きな土塁や空堀がよくわかります。本丸には忠魂碑やトイレと並び、櫓のようなものがあります。これが長野時代からの古井戸。なかから、長野一族の墓石がでてきた場所です。
長野業正が病で亡くなったあとをうけた息子の長野業盛は、再び攻勢を強める武田信玄と渡り合います。しかし利あらず、ついには箕輪城まで武田軍が押し寄せました。業盛は一族玉砕の覚悟を決め、この井戸のある郭で自決。その際、祖先の墓を敵に汚されないよう、墓石を井戸に放り込んだといいます。それがこの場所だった、というわけです。

箕輪城をでて、前橋方面へ。すでに日は高くのぼっていました。前橋市街から西に向かうと、すぐにあるのが「上泉」との地名。長野十六鎗を謳われ、のちに剣術流派「新陰流」をひらいた剣豪・上泉伊勢守信綱の生まれた町です。町の学校や駅前には「剣聖・上泉伊勢守ドラマ化!」とかかれた看板が上がっていました。凋落いちじるしいと言われる時代劇ドラマですが、やはり町おこしには十分なりうるようです。しかし、今年の大河ドラマ「花燃ゆ」は主人公が群馬県令の嫁になる話なんだから、群馬が取り上げられるのは充分じゃないかなあ、と思います。(前橋駅も前橋市役所も「花燃ゆ」押しまくってましたし、近くのTSUTAYAは初代県令の伝記をコーナーつくって売ってたし。)

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地震加藤になれなかった男

  • 2015/01/01(木) 14:35:06

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

さて、正月からする話題ではありませんが、今年は阪神大震災から20年、そして危機せまる南海大地震もますます発生の可能性が高まる、天災の備えが大事な年になりそうです。それにあわせて、こんな話があります。

朝鮮出兵の際、石田三成と対立して伏見で蟄居処分を食らった加藤清正。そんなある日、伏見で大地震が起こり、太閤秀吉の伏見城が倒壊する。清正は蟄居中であるにもかかわらず、手勢を率いて秀吉のもとに駆け付けた。
「虎之助(清正)、蟄居の身でありながらわが身を案じての働き、真あっぱれじゃ!」
秀吉は喜び、清正に自身の姓「豊臣」を与えた。世間の人は彼の忠義をたたえ、「地震加藤」と呼んだ―

いい話ですね。ですが、こっちはどうでしょうか…

江戸時代初期、江戸で火災が起こった。下野唐沢山城城主、佐野房綱は早馬を出して、江戸に将軍の無事をうかがう使いを出した
家康「佐野殿、そなた、えらく使いが早かったのう。」
房綱「はは、我が唐沢山城からは江戸の市中が遠望できますゆえ、危急の折にはすぐ駆け付けられます」
家康「なに、うぬは将軍家の首府たる江戸を見下ろしておるのか、けしからん!」
佐野家は家康の不興を買い、北条、上杉をも弾き返した堅城・唐沢山を廃城させられた―

ほぼ、おんなじことをしているのに、この扱いの違い。佐野氏は北関東の名門であり、どっちかというと豊臣恩顧の外様であったこともあるんでしょうが。
さて、この唐沢山城、現在の栃木県佐野市に跡地があります。はたして、ここから本当に東京は見えるんでしょうか。明日から確かめにいきたいと思います。


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