FC2ブログ

スポンサーサイト

  • --/--/--(--) --:--:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ぬきがき提督伝・橋本信太郎中将⑦初陣

  • 2016/06/30(木) 00:04:36

1914年6月28日のサラエボ事件を発端とした戦争は、当時の網の目のような軍事同盟やヨーロッパ各国軍のからくり仕掛けのような動員・戦争計画により瞬く間にヨーロッパ全土を巻き込む戦いに発展した。かたや、七つの海の覇者として世界に植民地帝国を築いたスーパーパワー・大英帝国並びに英連邦各国と、それにくみする「スチームローラー」(敵軍をひきつぶす)ロシア帝国、大陸軍国のフランス。かたや、その英国支配に異を唱え、「鉄血宰相」ビスマルク以来営々として陸海軍を拡充、整備した「遅れてきた帝国主義列強」ドイツ帝国、ハプスブルク家の君臨する、この事件のきっかけをつくったオーストリア=ハンガリー二重帝国。ヨーロッパ主要国はこの二陣営いずれかにくみして戦闘に飛び込んで行った。
 ひるがえって、日本の対応は。日露戦争の際に大いに役立った軍事同盟「日英同盟」にのっとれば、当然に英国陣営にくみするべきだろう。しかし、その英国はあまり日本の参戦に乗り気ではなかった。というのも、英国、というより、その連邦の一角であるオーストラリアや、ドイツ軍が駐留する中国は、日本の参戦目的を、大戦を奇貨としてアジア地域での勢力圏拡大と見たのである。また、日露戦争後、日本を太平洋覇権のライバルと捉えはじめたアメリカも、日本が南洋のドイツ軍基地をうばえば、近未来の対米戦争においてアジアのアメリカ拠点・フィリピンなどを攻撃する絶好の基地になってしまう、との論調がさかんだった。
 しかしながら、ドイツ軍は中国山東省を1898年に租借して以来、同地青島に要塞を構え、装甲巡洋艦「シャルンホルスト」「グナイゼナウ」を主力とする有力艦隊をもっている。シュペー提督に率いられたこの艦隊は、開戦とほぼ同時にパガン島(北マリアナ諸島。現在、アメリカ自治領)に集結した。彼らはここで補給を受けてから南太平洋に出撃し、通りがかる商船や輸送船を襲って撃沈・拿捕する「通商破壊作戦」をはじめた。ちかくは日露の時のロシア・ウラジオ艦隊が実施し、日本人を恐慌させたこの戦術は、①少ない艦船で敵の補給線を妨害できる。特に英国や日本のような輸入資源に依存する国には有効。②輸送船を守るためや通商破壊艦を撃沈するために、敵艦船の多くを拘束でき、味方主力艦隊の行動を間接的に支援できる。といった利点があり、特にドイツ海軍のように、海軍戦力の乏しい国が大海軍国とわたりあうには大きな成果を期待できた。一方の英国海軍は、日露戦争後にロシア艦隊がついえてから東アジアの艦隊を縮小しており、単独でドイツ東洋艦隊と渡り合えるか疑問視されていた。加えて、当時の海軍大臣チャーチルが英国艦隊を香港に集結するよう命令したため、ドイツ東洋艦隊をとりにがす失策を演じてしまう。ドイツ艦隊を討ち取らねば太平洋の航海を安全にはできない。ヨーロッパでもドイツ大洋艦隊とにらみ合う英国には、この東洋艦隊撃滅に日本の協力は不可欠であった。
かくして、8月23日、日本はドイツに宣戦布告。日本海軍も太平洋の安全確保とドイツ東洋艦隊撃滅、東アジアのドイツ軍拠点制圧に動き出す。橋本たち「生徒に毛が生えた」ていどの少尉候補生が北海道・苫小牧港に入港したのは、宣戦直前の7月30日だった。すぐに候補生たちも新任地として艦船乗り組みが発令される。8月11日、橋本が拝命したのは「筑摩」乗り組み。5000トンの防護巡洋艦である。橋本を乗せた「筑摩」は巡洋戦艦「伊吹」(艦長は兵学校の教頭だった加藤寛治大佐である)と組んで、シンガポール方面に向けて出撃した。これがこののち、昭和20年のペナン沖まで続く橋本の軍人航路のはじまり、初陣となった。9月初旬にシンガポールに到着した「伊吹」と「筑摩」は、その地を拠点に英国海軍などと共同で周辺海域に出没するドイツ東洋艦隊を警戒する。9月16日には、東洋艦隊の軽巡洋艦「エムデン」がベンガル湾で輸送船を襲っているとの情報を受け、「筑摩」に出撃命令が下った。スリランカのコロンボを目的地とし、航海中に「エムデン」を捕捉すればこれを攻撃するのである。また、航海中にであった英国船舶にあたりが危険であることを知らせ、すぐ退去するようにも通達している。しかし、このときの作戦はなかなか功奏しなかった。9月21日、「エムデン」の目立った情報もなくコロンボに着。すぐに軍令部からの命を受けた「筑摩」は、今度はビルマ(現ミャンマー)のラングーン(現ヤンゴン)にむかう。しかし、途中でトマンコマリー(現スリランカ)に「エムデン」あり、との情報を受け、反転する。しかしこの追尾も空振りとなり、コロンボで再度の補給を受ける。ここで10月1日に「伊吹」と2隻で特別南遣支隊に編成された事を知った。かように、あちこち警戒しても「筑摩」も英国艦隊も「エムデン」を捉えられない。いまだ航空機が海上偵察に用いられない時代、後年のミッドウェーやソロモンをおもえば別世界のような話である。しかし、神出鬼没で連合軍を翻弄した「エムデン」もついに年貢を納めるときがきた。輸送船襲撃や基地砲撃など、インド洋で獅子奮迅の大活躍(日本や連合国からみれば大暴れ)を見せたのち、11月9日、ココス諸島のディレクション島通信基地(オーストラリア領)を攻撃中にオーストラリアの軽巡洋艦「シドニー」に捕捉され、ついにしとめられた。この時、同じく「エムデン」を攻撃できる位置にいながら撃沈の手柄を「シドニー」に譲った加藤艦長は、「伊吹の武士道」として名を知られるようになる。しかし、その場に橋本の乗る「筑摩」はいない。この時はグレートニコバル(アンダマン諸島)の警戒のためにずっと西の海域を警戒していた。


平間洋一『第一次世界大戦と日本海軍・外交と軍事の連接』慶應義塾大学出版会・1998年
三野正洋・小清水政夫『死闘の海・第一次世界大戦海戦史』光人社NF文庫・2004年
『軍艦筑摩戦時日誌 大正3年9月3日~10月12日』(アジア歴史資料センター・C10080165900)
『軍艦筑摩戦時日誌 大正3年10月13日~11月10日』(C10080166700)


スポンサーサイト

ぬきがき提督伝・橋本信太郎中将⑥卒業航海

  • 2016/06/25(土) 21:19:12

海軍兵学校を出た生徒は、少尉候補生として練習艦に乗艦し、海軍生活のイロハを船の上で学ぶ。
 ここで橋本らは、かつての八方園で気合いを入れられて以来のスパルタ教育を受けた。海軍俗論に曰く、「牛、馬、候補生」。候補生はそれこそ馬車馬のようにこき使われつつ、艦船業務を体にたたき込んでいった。なかでも大変だったのが天測、すなわち空の星を計測して艦隊の現在位置を確かめる作業だった。GPSもない当時、星の位置から現在地を割り出すのは、大航海時代以来の艦船運行の基本である。特に、陸のない大洋を航海する事が多い日本海軍艦艇に乗るには必須の技術といえた。しかしこれが慣れないと難しく、計測を間違えて測定現在地を地図で確認すると自分のフネが陸地を疾走している事になった、といった笑い話もこの時期の候補生から生まれた。
 このような訓練時期を経て、候補生が最後に行うのが「遠洋航海」である。大正3年(1914)4月20日、横須賀港を出港した練習艦隊は、一路航路を東へとった。まずはハワイ、ホノルルへ向かう。同期の草鹿龍之介曰く「候補生はセキスタントとデッキウォッチの毎日」、見張りに天測、さらには溺者救助訓練などさまざまな訓練に明け暮れた。特に候補生たちから「海坊主」とあだ名された遠洋航海艦隊司令・黒井悌次郎少将(山下校長と同じく「米沢海軍」人材の一人。日清・日露戦争で活躍し、日露では旅順要塞砲撃部隊を指揮。この航海中に昇格して中将)は無類のやかましやで、候補生たちはじきじきにしぼられることも度々だった。そんななかでも、橋本ら候補生には実地でみる初めての欧米社会に期待も高まっただろうか。海外はおろか、生まれた土地から一生離れないものも多くいた時代の話である。
 5月8日、練習艦隊はハワイに入港する。遠洋航海は少尉候補生の訓練という意味の他に、各地の日系人コミュニティと交流したり、実際の諸外国を見たりして国際感覚を磨くことも目的の一つである。また、在外の移民や日系人には、日の丸をはためかせた帝国海軍の艦船をみることは心細い異国の地で祖国のちからを見て安心できる一大イベントでもあった。ソフトな「砲艦外交」といっていい。息詰まる訓練や外交儀礼の合間に、ワイキキを散歩したり、土産物を買ったり、という憩いの一時もあった。その後は15日にキラウエア火山を見学後、ハワイを発ち、31日にアメリカ本土に到着。アメリカ合衆国はロサンゼルス、サンフランシスコ、カナダはバンクーバー、シアトルなどをまわった。そこからアリューシャン経由で日本へ帰還する。この41期のなかにいて、橋本とも交際の深かった木村昌福は、こののち太平洋戦争下にこの北方、アリューシャンを舞台に「奇跡」を現出する事になるが、当時はまだ知るよしもなかった。
 そんな41期少尉候補生たちは、日本本土に帰るや突如として実戦に向かうことになった。東欧・セルビアでオーストリア=ハンガリー二重帝国皇太子が暗殺され、ヨーロッパ列強ことごとくが二手にわかれて激突する大戦争、「欧州大戦」が勃発したのである。

ぬきがき提督伝・橋本信太郎中将⑤明治おわる

  • 2016/06/14(火) 23:13:24

月日はすぎ、橋本たちが最高学年の一号生徒になった夏。在学中、もっとも大きな出来事がおこった。「明治天皇崩御」である。最後の夏休みが始まってすぐの明治45年7月30日早朝、明治天皇は崩御された。兵学校は同日午前9時半には、全国に帰省中の兵学校生徒に向けて即刻学校に戻るよう電報を打っている。橋本も、和歌山にかえっておれば、当然この電報を受けていただろう。
 9月9日、41期と42期の生徒は、明治天皇大喪の儀に参列するため江田島から東京に向かった。明治天皇の大喪礼は9月13日、現在の明治神宮御苑となる陸軍練兵場で行われた。同日、陸軍大将乃木希典が自宅で夫人・静子とともに自決する。明治天皇にひとかたならない信任を受けていた乃木の死は「明治という時代への殉死」として、この時期の喪章を付けた写真が有名になる文豪・夏目漱石の『こころ』や陸軍軍医の要職にあった森林太郎(森鴎外)の『興津弥五衛門の遺書』などに大きな影を落としている。
 一方、乃木大将の死に批判的、嘲笑的な人々もたしかにいた。そもそも、当時は乃木大将を「軍神」と神聖視するようなむきはそれほどなく、新聞なども明治大帝の崩御でてんてこ舞いの時期におこった殉死に、記者たちは「もう少し時期を選んでくれ」と迷惑げだったともいう。このような世情を受けてか、山下校長は御大喪後に江田島にかえった時、全校生徒・教官に
「市中の諸説は信を置き難いので、乃木家弔問の際、責任ある某将軍に面会し当夜の模様を聞き質した事であるが、自分の所感としては乃木大将の御心事は絶対に批判を超越したもので、実に崇高なる軍人精神の発露である。」
と説諭し、生徒や教官が乃木を代表とする武士的・軍人的なものに疑いを抱いたり、軍人としての信念に揺らぎを覚えたりしないように腐心している。しかし、実際には「崇高なる軍人精神」を尊しとした軍人社会の流れとはちがう、「市中の諸説」が力を持った大正新時代がはじまろうとしていた。
 年号が「明治」から「大正」に変わった大正二(1913)年12月19日。橋本は118人中43番の成績で卒業した。木村は107番、本間(田中)は34番。卒業式がおわると生徒館で兵学校制服から少尉候補生の制服へ着替え、兵学校表桟橋に待つ汽艇に乗り込む。生徒館から桟橋まで、沿道を埋める先生や親兄弟に別れを告げ、汽艇の向かう先は練習艦隊の装甲巡洋艦「浅間」「吾妻」である。この二隻も、かつての日露海戦、蔚山沖海戦や日本海海戦で活躍した武勲艦であった。

加藤寛治大将伝記編纂会『加藤寛治大将傳』1941年(非売品)


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。