スポンサーサイト

  • --/--/--(--) --:--:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ぬきがき提督伝・橋本信太郎中将⑧初陣、その2

  • 2016/07/20(水) 23:26:31

12月、候補生から正式な海軍少尉に採用された橋本は、スバ(現:フィジー共和国)に駐留する南遣支隊司令部附きとなった。『第一南遣支隊公報』12月7日には、「筑摩艦長ノ命ヲ受ケ服務スベシ」として少尉・橋本信太郎の名がある。もっとも、この時点では「筑摩」はタウンズヒルに停泊していたようだが。任官直後の12月10日、タウンズヒルで補給作業にあたる「筑摩」に山屋他人南遣艦隊司令より電文が入った。
「補給完了後、艦隊はヌーメアに集結すべし。」
英海軍部隊がフォークランド島沖でドイツ東洋艦隊を捕捉、交戦したのである。電文到着の二日前の12月8日、日本海軍の主敵だったドイツ東洋艦隊はこのフォークランド沖海戦で壊滅し、司令官シュペー提督以下が戦死した。これにより、南洋方面に艦隊を展開させる必要が減じたため、12月12日に艦隊の日本帰還が決定。翌大正4年1月17日、南遣艦隊は横須賀港に帰港した。岸壁には山屋他人司令官の家族はじめ、多くの家族が歓声をあげて出迎えた。
 その後、橋本は司令部附から正式に「筑摩」乗り組みになるが、8月には防護巡洋艦「矢矧」(「筑摩」型2番艦)に代わり、その年12月1日の辞令で中尉に任官し、そのまま横須賀にある海軍砲術学校普通科に入学する。なお、直後の12月4日に開催された海軍の大イベント、大正新帝即位式に伴う特別観艦式には「矢矧」乗り組みの中尉として参加した。「矢矧」はこのとき、大正天皇座乗のお召し艦「筑波」の供艦として近くに仕えている。橋本ら「矢矧」乗員は、観艦式後に新鋭戦艦「比叡」で昼食を天皇陛下より下賜された。砲術学校での学習を終えた半年後、今度は水雷学校普通科に入学する。砲術、水雷などの基本技術を持ち回りで全て学ぶのは海軍士官の義務教育であり、このなかから自分にあった術科を選ぶことになる。
 大正6年(1917)、普通科教育課程を終えた橋本は、駆逐艦「神風」に乗り組む事になった。第二駆逐隊(神風・響・如月・初霜)を構成する一艦である。この年3月、ロシアで革命が発生する。皇帝ニコライ二世は退位し、300年にわたって、かの地を治めてきたロマノフ朝帝政ロシアはここにほろびた。連合国の一角は崩れたが、翌4月にはアメリカがついに大戦に参戦する。勝敗の行方は、連合国に確実に傾きつつあった。日本はこの年、連合軍支援のために特務艦隊を地中海に派遣した。マルタを拠点に活動するこの艦隊には、同期同郷の原鼎三大尉が「香取」乗り組みで参加している。また、この遣欧艦隊には同郷の大先輩である寺島健中佐が、艦隊参謀として参加していた。
 大戦での連合国勝利が近づきつつあるなか、もうひとつの懸案が北方にうまれつつあった。崩壊した帝政ロシアのあとを受けたソビエト社会主義国家ロシアである。優勝劣敗の競争を是とする資本主義と、そこから来る他国資源や市場をうばってでもの繁栄を肯定する帝国主義をかかげてきた連合国側にとって、資本主義経済を否定し、国の仕組みそのものを変えてしまう思想である共産主義と、共産主義を輸出しようとするソビエト国家は脅威だった。大正7年(1918)日本を最大兵力とする連合国各軍は、シベリアに逃げ込んだ反ソビエト派のチェコスロバキア軍を支援し、地上軍を上陸させる。「シベリア出兵」のはじまりである。陸軍出兵による米価上昇にともなう「米騒動」のような副産物を生みだしつつ、日本軍はシベリアを制圧していった。しかし、すさまじい寒気の冬がやってくると、地の利があるソビエトロシア側の反撃が始まり、シベリア出兵部隊の進撃は停頓する。そして大正9年(1920)、日本軍が制圧していたニコラエフスク(尼港)で、ソビエトロシア勢力パルチザンによる日本軍へのだまし討ちと居留民の大虐殺がおこなわれた「尼港事件」が起こった。この現場を木村昌福は砲艦の乗組員として目撃している。

紀修一郎『日本海軍地中海遠征記・第一次世界大戦の隠れた戦史』1979年3月・原書房
帝国軍人教育会『震天動地世界大戦史』1919年10月・帝国軍人教育会
『第一南遣支隊公報』(C10128531600)
『軍艦扶桑、比叡、金剛午餐下賜人名簿』(6)C08020572400)

スポンサーサイト

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。