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不義不忠、そうは言っても…

  • 2013/12/10(火) 20:58:41

郡内小山田氏―武田二十四将の系譜 (中世武士選書)

天正10年の織田信長による武田攻略戦「甲州崩れ」は、文字通り「崩れ」としか言えないような一方的な戦闘となりました。武田軍の防衛線は各地で破れ、伊那高遠城を除いた拠点は次々自落。追い詰められた武田勝頼は、新府や甲府を捨てて郡内(今の大月市)を治める小山田信茂を頼りました。しかし、信茂はこの土壇場で裏切り、勝頼らを領地に入れず、進退極まった勝頼らは天目山で自決し、武田家は滅びることになります。
裏切った小山田信茂は、織田家から「不義不忠の臣」として家族もろとも処刑され、後世に汚名を残すことになりました。
ですが、郡内地方、小山田一族の拠点があった大月市では、いまでも小山田を讃える祭が開かれ、小山田一族を英雄としています。
実際の小山田一族はどんなひとだったのか?本書が描いているのは、平安から滅亡にいたる、小山田一族の物語。いろいろな発見がありました。
武田信玄を支えた小山田信有、ずっと信茂の父親のことだと思っていましたが、実際には家督を継ぐ人物は代々「信有」を名乗ってる(名乗りを襲名していたとされる「雑賀孫一」に近いかもしれません)とか、小山田氏は戦国時代には隣国・北条氏との外交を担い、北条からも知行を得ていたとか。そして、武田滅亡時の「裏切り」の実状。領国維持のためにはやむ終えないことだったようにも思える結論でした。
ただ、「末期に裏切った」小山田一族への風当たりは強かったようで、子孫は姓を変えています。特に、江戸時代は甲州流軍学が幕府に重用されたり、なにかと「武田贔屓」だったように見えますから、小山田氏は肩身が狭かったのではないでしょうか。

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