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「エライ人」の家族

  • 2013/01/20(日) 20:49:20

彦九郎山河 (文春文庫)

京都は京阪三条駅前に、膝をついて北のほうを睨んでいる侍の像があります。
京都住まいの人はこれを土下座像といい、三条や四条にいく際の待ち合わせに使います。
この像のモデルが、吉村昭「彦九郎山河」の主人公、高山彦九郎です。
一応、いまの教科書にも、寛政三奇人(高山彦九郎、林子平、蒲生君平)として載っています。しかし「海国兵談」の林子平や「山陵志」の蒲生君平のような目に見える功績はなく、土下座像だけが一地域で有名になっている印象を受けました。
彼の故郷は群馬太田市。南北朝の武将・新田義貞の本拠でした。今年はじめに、新田義貞の遺跡を尋ねた際には、彦九郎の記念館や自宅跡の碑が整備されていました。説明などによれば、高山家は新田義貞に遣えて鎌倉倒幕や南北朝動乱に尽くした、朝廷尊敬の念が強い家だったようです。彦九郎も勤皇家の儒学者として、全国に知人や学友のいる著名人でした。しかし、兄との折り合い悪くかったようで。彦九郎が親の死を受けて3年間喪に服したところ兄貴に「喪中など偽りで、隠れて不穏なことをしとる」と訴えられ投獄され、出獄後江戸にでてからは故郷に帰ろうとせず、全国を旅してまわっています。まあ、投獄までされちゃ帰れんわな…
兄弟間で対立があった偉人は小林一茶(継母・義弟と父の遺産をめぐり対立)、南方熊楠(実弟と対立)なんかが有名です。ただ、彦九郎は実の兄に誣告、投獄されており、並の仲の悪さではありません。
なんでここまで仲悪いのか・・・その答えの一端が、「彦九郎山河」で触れられていました。それは、祖先以来の根深いもの。
先に書いたとおり、高山家は累代「新田義貞に仕えた勤皇の家柄」というのを誇りとしており、武家政権に対して反抗心を持っていました。彦九郎はその家風を継ぎ、のちに京都で天皇家の衰退を嘆いて「尊号一件」で朝廷側として奔走、こと敗れてから九州で自害する際にも御所を向いて死のうとするなど、勤皇思想の強烈な人物でした。一方の兄は思想に感心を示さず、領主=武家政権の手先と仲良くなることで高山家を支えようとしました。実利を求めた兄にとって、勤皇思想にかぶれ、幕府に楯突く弟は邪魔そのものだったのでしょう。
こういう兄のような人は、後生必ず悪く描かれます。南方熊楠の弟も、熊楠のエラさを理解できず、支援を打ちきり邪魔者扱いしたとして、大概悪役です。

・・・でも、幕府全盛に見えた時代、反幕府を掲げて奔走する弟や、高いカネかけて留学したのに帰ってきても訳のわからん研究に没頭して働かず、政府に睨まれてる人物(孫文とか)と交流する兄貴を持ったら・・・

正直、笑って受け流す自信はないですね…
当時の人からは「変人の家族」と見られ、後世の人からは「偉人の業績の足をひっぱった」と非難され…偉人の家族のツラいところ、といえるかもしれません。

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この記事に対するコメント

どーも

おおぬきさんに紹介を受けて、遊びに来ました!

楽しく読ませていただきました。

偉い人の家族は大変ですよね!

私も、家には本が多いのですが、、、

しっかり読んでいないものが多いですね。

リンクを張らせていただきました。

  • 投稿者: 朱飛
  • 2013/01/22(火) 22:29:37
  • [編集]

Re: どーも

ありがとうございます。

なかなか毎日更新とはいかず、歩みののろいことになっておりますが、御笑覧いただければ幸いです。

  • 投稿者: とらいち
  • 2013/01/23(水) 21:03:34
  • [編集]

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