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ぬきがき提督伝・橋本信太郎中将① その出自

  • 2016/05/16(月) 22:45:48

和歌山市南部に冬野という地域がある。南には高校野球の強豪・智辦和歌山高校が建つ黒江、そして海南市につながり、北は安原地区の広い田んぼ、その向こうには神武天皇の兄・五瀬命が祀られる竈山神社が鎮座し、更に北からは和歌山市街地がひろがる。山と山に挟まれ、平地部分を和歌山市街と海南市街を結ぶ狭い県道がはしり、それに沿うかたちで小川が流れる、和歌山市のはずれである。冬野の名前は古く、江戸時代に編まれた『紀伊続風土記』には名草郡五箇荘の一集落として紹介されている。興りは天治年間というから、保元の乱で知られる崇徳天皇の治世である。その後は紀伊国造家の管理を受け、中世乱世のころには小型の城も築かれ、城山の名ものこる。その城山中腹には観音寺という寺が地域の寺社となっていたが、天正13年、秀吉の紀州征伐のあおりをくって焼亡し、江戸時代に紀州藩の治下に入った後に再建された。江戸末期、動乱の京都で新撰組が結成された文久年間には米価高騰のあおりを受けて地元住民が庄屋を罷免する事件がおこっている。
今現在、冬野からは海は見えず、海までも結構遠い。しかし冬野、安原、三葛などのあたりは古く海浜であり、海がひいて後に開拓された地域であるとされる。大雨が降ると水がつきやすく、水害が多いのもその地勢がもたらした負の名残といえようか。ここ十年のうちにも二、三度大雨に遭遇、一度は大雪に遇い、地域まるごと池になったような光景をみせた。このような土地がいかなる人物を生むのか。『紀伊続風土記』には冬野人の特徴として、

  広遠の原野にして田広く人少なく、多くは片毛作にて僻遠の寒村なり。 故に民習倹粗を事とし、是を黒江に比すれば殆域を異にするが如し。

…人口は少なく、作物も出来にくい。紀州藩の首府・和歌山城下に遠い寒村。だからこそ、人々は質素で、商業の発展する隣の黒江などとは地域がまったく違って見える。褒めているのかけなしているのか分かりにくい書きぶりだが、質素で飾り気こそないものの、不作や水害を寡黙に乗り越える、強靭な百姓の姿が浮かんでくる。本稿の主人公、「不平不満なき人士」と評された橋本信太郎の処世にはこの「民習倹粗」な冬野人の姿が重なって見える。
明治維新後の明治二二年(1889)、冬野は周辺の村14村と合併して「安原村」となる。明治二四年(1891)当時、安原村の人口は戸数833戸、男2430人、女2401人、小学校は5校もあった。
この記録がとられた翌明治二五年(1892)、5月11日、冬野の農家にて、橋本長之助、スエ夫妻に男の子が生まれた。本編の主人公・橋本信太郎である。                          
橋本と因縁あさからぬ同期生たち、田中頼三はそのほぼ半月前、4月27日に、山口県の本間家で本間頼三として、木村昌福は8カ月後の12月6日に鳥取県で生まれている。そして、橋本の誕生日から5カ月後の10月6日、同じく和歌山県和歌山市久保丁で男子が生まれた。紀の川河口、同じ和歌山市でも冬野とはうってかわって和歌山城下に生まれた原鼎三は、こののち、橋本の人生に幾度もの交錯をすることになる。
橋本がまだ物心つかない明治二七年(1894)、日本は隣の大国、清と激突する。この日清戦争に勝利した日本は、一躍アジアの大国として名乗りを上げた。この同じ年、安原地区の5つの小学校は合併され、「安原小学校」が生まれる。また、尋常小学校が安原村朝日の浄土寺裏にできたのもこのころである。6歳になった橋本も、この尋常小学校で勉強をはじめた。当時の尋常小学校は国語を中心とした初等教育が行われており、4年間と今より短い期間ではあったが、これが実質的な義務教育となっていた。もっとも、橋本が進学した時期には更に「高等小学校」があわせて設けられ、尋常科+2年の就学という、現在の小学校に近い状態になっていた。安原小学校が創立百年を記念した『安原』巻末にある卒業生名簿によれば、橋本は明治34年(1901)に尋常科を卒業している。

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