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ぬきがき提督伝・橋本信太郎中将② 中学進学

  • 2016/05/22(日) 21:22:59

小学校を卒業後、橋本は和歌山中学(現:和歌山県立桐蔭中学・高校)に進学する。小学校をでた殆どの児童はそのまま就職や家業を継いでいた当時としては、中学進学は高等教育、エリート教育への階に足をかけたといっていい。この和歌山中学は幾度目かの校舎移転のすえに、当時は和歌山城下、かつて紀州藩主が隠居地にしていた西の丸跡地にあった。当時の写真を見ると、和歌山城天守閣を背景に、モダンな校舎が写っている。先輩には博物学者の南方熊楠や、海軍の重鎮・野村吉三郎がいる。
 橋本が学生時代を過ごしたころ、和歌山もまた成長の途上にあった。明治22(1889)年、市町村制が発布され、旧和歌山城下に「和歌山市」が誕生する。新しい時代は、新しい教育も伴った。明治12年(1879)に和歌山中学が開校。しかし、入学者はかなり少なかった。現存の和中40周年記念記念誌・同窓会名簿に最初に載っている明治15年卒業生がわずか10人。以後明治33年(1900)までの卒業生は1ケタ~10人程度の名前しか載せられていない。
転機となったのは明治29年(1896)に紀南に田辺中学(現在の田辺中学・高校)がひらかれたのを機に、定員を大きく増やした事にある。おりから、県内小学校の整備増設にあわせて中学校への進学も増え、和歌山中学の10人程度の定員では賄えなくなってきたのだ。同窓会名簿に載った、橋本の同級生は74人にも及んでいる。中学の増設は日露戦争前後まで続く。明治34年(1901)には紀の川流域二番目の中学、粉河中学校(現在の粉河高校)が開かれた。同年、和歌山高等女学校も県立になり、女子教育も普及し始めていた時期である。
 橋本が入学するすこし前の和歌山中学では、後につながるスポーツが定着しつつあった。野球である。明治30年(1897)、和中にやってきた青年教師坂口昴と香川直勝が、はじめて野球とテニスを紹介した。中学生たちには個人競技のテニスより仲間と楽しめる野球がうけ、翌年明治31年(1898)には野球部のような集団も生まれていた。練習は学校すぐ前の和歌山城砂の丸広場で行った。グローブもなく、生徒たちは素手で二人の打つノックを受け、すりこぎを削ったバットで打っていたというから、草創期の野球競技とはどんなものだったかがうかがえる。野球部員たちは野球競技を広めるため、あちこちで試合をみせたものの、市民からは「中学生にもなってマリ遊びか」「お城の松が野球のせいで傷む」とさんざんな評判だった。現在の野球全盛、甲子園上位常連の県からは考えにくい反応だったようである。

参考:『新版県史 第2版 30和歌山県の歴史』山川出版社2015年1月
   『創立満40年記念号』和歌山中学 1920年12月
   『高校風土記―和歌山中~桐蔭高―』毎日新聞社和歌山支局 1978年

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