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ぬきがき提督伝・橋本信太郎中将③ 海軍へと至る進路、その時代背景

  • 2016/05/29(日) 22:11:42

市民の反応にも負けず、生徒の間で人気競技だった野球は、しかし、一時断絶の危機を迎えた。明治38年(1905)に福井から転任してきた成富信敬校長が「野球部廃部、対外試合の禁止」を決定したからである。この成富校長は、佐賀藩支藩、蓮池鍋島家の家老家に生まれた葉隠武士の裔、剣道柔道の寒稽古には自ら陣頭にたって稽古に励む武闘派だった。のち、和歌山中から転任した群馬前橋中では、生徒を率いて長野への雪中行軍を踏破している。シベリア横断で有名になった福島安正陸軍大将から踏破記念の漢詩を送られたのはこの時である。
 この武士道で固めたような校長は、その息子が後に述べているように「スポーツなどは生徒の性欲を発散させる程度のもの」との考えがあった。加えて、明治40年(1907)に生徒が校長の指導方針に反発して日前宮に集まり、ストを敢行する事件が起きた。当時は気に入らない教師の授業をボイコットしたり、指導方針に反発してストをしたりする事が頻繁にあったらしいから、学生紛争はなにも戦後の「自由な時代」の専売特許ではなかったのである。しかし、上記のような武断派校長が生徒のストを許すわけもなかった。特に、この時のストを主導したのが野球部部員だった、とみた校長は「野球部廃部、対外試合禁止」の荒療治にでたのだった。
 野球を廃絶した成富校長は、一方で武道の奨励を行った。明治41年(1908)からは柔道か剣道を選択制としてどちらかを受講するように設定された。新たに武道場が新築されたのもこの時期である。これらの武道振興により、橋本ら生徒は野球に代わるものとして剣道や柔道、それに海軍兵学校で行われる「棒倒し」などで若さを発散していたのである。もちろん、堅苦しいだけの生活ではない。中学生は県下ここだけ、県のエリートとの自負もあった彼らである。運動場の上の石垣に登って通行人をからかう(それが高等女学校の先生で、すぐさま学校に通報されて石垣を先生に囲まれて降りられなくなった)などの悪戯あり、かつての紀州藩武士の馬場で駄弁るなど、学生生活を謳歌したようだ。
橋本らが在学したころは、日露が激戦を繰り広げた時期に重なる。影響は学校にもあらわれ、明治37年(1905)には学校に「戦役文庫」がおかれ、生徒の修養にと供された。また、卒業した先輩の中には一年志願として従軍し、旅順や満州で果てた者も多くいる。そして、日本海での帝国海軍の華々しいパーフェクトゲーム。すぐ目の前の和歌山城内では反戦集会もおこったとは言え、血気に満ちたエリート学生だった橋本や原たちが軍人を進路と考える素地は十二分にあったといっていい。・・・もっとも、同窓会名簿でみるかぎり、この年の和中出身で海軍を進路にえらんだものは、このふたりだけのようだけれど。
 海軍にいくならやはり士官、それも戦場に立つ兵科将校。ということで、橋本と原は海軍兵学校を志望する。海軍士官養成校である兵学校は難関としてしられていた。まず入学試験からしてが和歌山では行われない。全国12か所の試験で、最も近い近畿会場は京都であった。交通の発達した現在でも、京都で大学受験する場合はたいてい前日から泊まり込む。わけても交通機関が鈍足の鉄道くらいしかなかった当時、橋本は泊まり込みで受験にいったのだろう。
 結果は合格。橋本は120人中15位の成績で兵学校に入学する。兵学校は広島の江田島におかれ、全寮制だった。ここで橋本は、兵学校生徒のほとんどがそうであったように、地元を離れての生活が始まる。

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