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ぬきがき提督伝・橋本信太郎中将④兵学校時代

  • 2016/05/31(火) 22:17:24

海軍兵学校―日本海軍の士官候補生養成学校。当時―現在でも、日本以外の先進国では―高級士官は国家のパワーエリートとされた。つまり、兵学校はそのまま、将来の日本を背負う人材を育成する場であった。明治43年、9月12日、その兵学校での入校式に臨む橋本信太郎少年の姿があった。彼らの代は41期生とされ、総生徒数113人。同期生は、戦艦「大和」艦長を務めた高柳儀八や、大森仙太郎・木村昌福・草加龍之介・田中(当時は本間)頼三など、太平洋戦争を艦隊司令や参謀長として戦った人々の名前がならんでいた。地元を同じくする同期生は原鼎三、久宗米次郎、榊原正木、沢田虎夫、芝崎葆禄、伊藤賢三、それに橋本を入れた7人。このうち、若くして殉職した榊原を除く6人は中将の橋本、原を筆頭に将官に昇進し、太平洋戦争の渦中で奮闘する事になる。この期に占める和歌山県人7人というのは、前後のクラスでは38期(149人)の6人(伊藤禎二、居谷吉春、稲垣生起、関本織之助、田中広吉、水崎正次郎)が匹敵するくらいで、39期(148人)の4人(大崎安児、竹中龍造、橋本愛次、森 良三)、40期(144人)の2人(島津鹿蔵、舛岡誠太郎)、42期(117人)の1人(伊藤安之進)、43期(95人)の2人(橋本象造、西川清五郎)、44期(95人)の3人(澤正雄、島本久五郎、堀 鴻一)などに比べて極めて多い。また、ほぼ全員が将官になったというのも珍しい特徴ではある。もっとも、それは後のちの事。
 ここでの生活は、バンカラをきわめたらしい。同期生の一人であり、のちの南雲機動部隊参謀長として知られる草鹿龍之介によると、入学後はじめの二週間は、上級生は優しく、兵学校生活を手をとらんばかりの丁寧さで教えてくれる、しかし、二週間たつと、突然「一学年生徒は夕食後八方園(兵学校内にある緑地・祠があり、八方園神社ともいわれた)に集合」と言われる。何事か、といってみれば、三年生(一号生徒)から

「貴様達は、三千百人のなかから選ばれた秀才である。貴様達は入校以来既に二週間、われわれ三学年生徒は、実に懇切丁寧に色々の事を教へてきた。今にして尚教へたことが実行されないならば、今後は腕をもって教へる」(草鹿龍之介『一海軍士官の半生記』Ⅱ海軍兵学校時代から海軍軍令部参謀・pp76)

とのお達し。一年生(三号生徒)が「お客様」から「下級生」になった瞬間といえた。以後、失敗があったならばどしどし頬を張る、鉄拳制裁(これを弥次る、といった)が行われだす。この風習は兵学校伝統のもので、まず二週間はお客様扱いし、いろいろ丁寧に教える。教えることが一通り終わったころ、前記のような通達ののち、「本番」を始めるわけである。体罰厳禁の昨今では信じがたい教育といえるが、本人たちはそれほど気にしていなかったらしい。痛いのは最初だけで、殴られ慣れると「殴られ方のコツ」がわかってくる。また、自分が悪いことをしたのだから、一発バシッとやってもらってスッキリした、という人もいる。むしろ、叩かずに説教されるほうが時間ばかりかかって嫌だった、とか。
信太郎らを鍛えた「鬼の一号生徒」には、のちに軍令部次長を務め、名高い戦艦「大和」水上特攻で戦死する伊藤整一以下、岡敬純、角田覚治、志摩清英、原忠一らがいた(なお、草鹿は伊藤伍長補(副隊長)の分隊に入っており、何度も他分隊の上級生からの鉄拳をかばってもらった、という。その伊藤に、後年「大和」特攻作戦実施を通達にいき、伊藤に引導を渡す事になろうとは、当然、草鹿生徒には知る由もない)。ことに角田、原は太平洋戦争で機動艦隊を率いて敢闘する司令官たちである。
 三号とてやられっぱなしではない。兵学校では「棒倒し」という体育競技があった。ここでは、上級下級関係なく、競技にかこつけて殴ろうが蹴ろうが恨みっこなしだった。そこで、「棒倒し」に勝てるよう、食事の際などは余りモノを図体のでかい、馬力のある同級生にひそかに回して必勝を期したりもした。
 艇を漕ぐ訓練に遠泳、江田島の弥山登山(毎年10月17日実施。その一カ月もまえから準備訓練がある。前に集合を命じられた八方園の小高い丘を一号生徒を先頭に駆けあがり駆け下りる。)耐寒訓練(一月二月の寒空下でも、実質夏服で授業を受ける。もちろん空調などはない。)などの軍人らしい「体育会系」教科がある。学科ではイギリス海軍にならった日本海軍らしく英語重視で、普通科目の教科書は英文しかなかったというから徹底している。軍人らしい兵学の授業は、さすが海軍、砲術、水雷術、航海術などである。
当時の校長は山下源太郎中将(校長在任中に昇級)。紀州海軍と同じように海軍人材を輩出した山形県出身の海軍軍人、「米沢海軍」のホープであり、日清戦争のおりには清国北洋水師の堅艦「定遠」「鎮遠」を恐れて出撃を控えようとした連合艦隊や海軍軍令部を突き上げ、攻勢作戦に転じさせるきっかけをつくった、との逸話ももつ。休みの日には兵学校生徒が遊びに来て、自身の子どもと遊ぶのを眺めていた校長は、また、兵学校の施設拡張にも熱心だった。伊勢神宮の校内奉祀や、教職員官舎の改築(当時、水道がなかったため、江田島の古鷹山から水をひいた)大講堂の建設も彼の時代である。
 山下校長の下で教頭にあたる幹事を務めたのが、加藤寛治大佐。日露の英雄、「軍神」廣瀬武夫とも仲の良かった加藤教頭は、日露序盤期に戦艦「朝日」砲術長として廣瀬と勤務をおなじくしていた。この山下=加藤コンビの交流は終生に及んだ。なにせ、まだ兵学校生徒だった加藤教頭が、教えを受けた砲術教官が山下校長だったというから、生徒当時からの縁である。この加藤教頭と生徒隊監事の兼坂隆中佐はスパルタ教育の最右翼だった。兼坂中佐の如きは、その厳しさから「ケンバンリュウ」と恐竜のようなあだ名をつけられ恐れられた。なお、余談ながら青森県大湊基地(旧海軍大湊警備府)の資料館「北洋館」には、この「ケンバンリュウ」の肖像が、彼にしごかれたであろう木村昌福らの肖像とともに展示されている。日露戦争の記憶生々しいこの時代、校長以下、実戦経験に富む教官連や荒っぽい上級生たちにきたえられながら41期は育っていった。
 そうは言っても学校、楽しみがなかったわけではない。運動に勉強に精を出す、食べ盛りの兵学校生徒たちには、やはり食べ物の話題に熱が入る。テーブルマナーの授業もあった兵学校の食事は美味い洋食とは有名な話だが、未だ民間では日本食が主流のこの時代、生徒たちの関心は汁粉にぜんざい、羊羹などの和風甘味によせられた。兵学校烹炊所にある煙突のひとつは、朝にここから煙が出るとお昼にはお汁粉が出るというので、生徒たちの熱烈な視線をあつめた。夕食後には、一号から三号までが出身県に分かれて横隊で散歩する事もあった。ここでは同郷同士、方言で地元の事を語り合った。橋本や原たち7人も、和歌山弁で遠く離れたふるさとのあれこれを話し合ったかもしれない。

草鹿龍之介『一海軍士官の半世紀』光和堂・1973年
将口泰浩『キスカ島 奇跡の撤退―木村昌福中将の生涯』新潮文庫・2012年
松田十刻『角田覚治』PHP研究所・2009年
山下大将伝記編纂委員会・編『海軍大将山下源太郎傳』1941年(非売品)

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