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ぬきがき提督伝・橋本信太郎中将⑨水雷屋

  • 2016/08/01(月) 22:32:40

大正8年(1919)の暮れ、橋本は横須賀市田浦にある海軍水雷学校高等科に入学。水雷戦術や兵器運用を学ぶ。この高等科は、前回入学した普通科にくらべてより専門性の高い教育を行う課程であった。一年の修学期間を終えた(この時の水雷学校主席は田中頼三。また、原鼎三は通信科主席だった)橋本は第一艇隊の艇長となり、大尉に昇進する。同じ日に木村昌福もまた、大尉に昇格し、第二艇隊の艇長となった。「艇」とは、水雷艇の略で、魚雷を主要武器とする船である。ここから橋本は「楓」(大正10年(1921))乗り組み、「蓮」(大正11年(1922))乗り組み、「沖風」水雷長(同年)と駆逐艦ばかりに乗り組み、ついには大正12年(1923)12月の辞令をもって、駆逐艦「夕立」の艦長に任じられた。なお、「沖風」水雷長時代の大正12年(1923)9月1日、第二艦隊第二水雷戦隊に所属して中国沖を演習公開中に「関東大震災」の報告を受け、第二艦隊各艦とともに震災直後の東京へ急行して、被災地への食料品輸送などにあたっている。
 軍将校には、大学の専攻のように自身が専門とする「兵科」がある。海軍では「砲術」「水雷」「航海」などがある。水雷学校高等科を出た橋本はもちろん「水雷」だった。彼のように「水雷」を専門とするものを「水雷屋」と呼ぶ。「水雷屋」は主に魚雷を主兵装とする駆逐艦・軽巡洋艦などの小型艦船勤務を専門とする。小型艦で大型艦を撃沈できる魚雷攻撃は、資源・資本に乏しい日本海軍にとっては実に重宝するものだった。日清戦争での威海衛夜襲雷撃による大型装甲艦「定遠」の撃沈や日露戦争でのバルチック艦隊掃討以来、砲戦とともに日本海軍の主力といて位置づけられていた。
また、「水雷屋」とはその専攻分野のみを指すのではなく、「水雷屋気質」とも言うべき特徴的性質をもつものたちでもあった。水雷屋気質とはなにか。橋本と同じく水雷屋の同期生・高間完氏の回想によれば、「上にあって令する者、おごらず」「下にあって服する者、怖じず」であるとする。
 水雷屋の勤務地は、水雷艇で30人程度、駆逐艦で200人程度、軽巡洋艦で400人程度の乗員で動く小所帯である。これは、「砲術」の花形勤務地である戦艦や重巡洋艦が、戦艦「大和」の3000人を筆頭に、戦艦「金剛」で2300人程度、重巡洋艦「妙高」で700~800人程度であった事を思えば、いかに少人数で動かす艦であるかがわかる。そんな小所帯では、艦長以下がみな顔見知りであり、きやすく付き合える、濃い人間関係を結べた。最後の「大和」艦長となった水雷屋・有賀幸作大佐は、「大和」の沖縄特攻前夜に乗組員の酒盛りに飛び入り参加して自分の禿げ頭を叩かれてもニコニコしていたというが、こんなきさくな付き合い方も、水雷屋の特徴と言えた。
 このきさくさの背景には、いざ戦闘となれば、他艦種にくらべて最も生身を危険にさらす艦種であった事も理由だろう。他国では、小型艦船や潜水艦を駆逐する(だから駆逐艦)役割がおおきい駆逐艦は、日本では艦隊決戦の前衛として、あるいは決戦後の落ち武者狩りとして敵大型艦船を水雷で撃沈する任務が大きかった。防御を考えずに快速性と魚雷の破壊力を武器に、大型艦の内懐に飛び込んでグサリとやる、命知らずの荒くれ者。それが、艦隊において駆逐艦に、「水雷屋」に求められるものであった。また、少人数であるがゆえに、駆逐艦乗りは水雷屋でも見張り、航海操作など、艦内の仕事を多く兼任する事もあり、戦艦勤務の場合に比べて「艦内業務は何でも屋」になる。同時に、小型艦船のために戦艦・巡洋艦に比べ若くして艦長や駆逐隊(駆逐艦4隻で編成される部隊)指揮官になれる特徴があり、若手将校に人気の秘密にもなっていた。
 なお、この時期、橋本は妻をめとる。妻、功とのあいだには大正10年6月に娘が生まれ、信子と名付けられた。大正末年は、海軍部内で気鋭の水雷屋としても、家庭生活でも橋本にとって充実した時期であった。


海軍水雷史刊行会『海軍水雷史』1979年
山本千代子「田川飛旅子年譜」角川書店・編『田川飛旅子読本』381頁・1995年

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